北村事務所 いよいよ最終章 上へ


 人生も最終章に入ったようである。大学の同期生も部長級の職にあるため,定年を前にして,この3月で某役所を所謂勧奨退職する由である。法務局からの帰途,餞別を渡しがてら彼の天下り先を尋ねるべく,彼の勤める某役所を訪ねた。ところが,3月に入ったこの時期にも拘わらず,未だ“天下り”先は決まっていないという。蓋し,地方の民間企業は未だに平成不況から脱しきれずにいるし,外郭団体や第三セクターは,その整理縮小が行財政改革の俎上に乗せられており,とても公務員OBを受け入れる余地はなさそうである。先般は,某学校の校長である高校の同級生に会ったが,校長の職は部長級の格付けではないのか,60歳の定年まで居られるという。この二人の同期に共通した印象は,何故か,何れも老け込んでしまっていることである。「管理者」という職分を与えられ,「個室」でじっと今までの宮仕えや人生の最終章のカウントダウンの音を毎日聴かされていれば,「終わり」を否応なく認識せざるを得ないからだろうか。

 斯くいう管理者は,幸いにも,定年のない個人事業者,彼らのような「終わり」はない。東京の,貨物列車が通ると揺れた裸電球のアパートで,六法片手に基本書を読んでいた頃と同じように,今後も学究の徒でありたい。少なくとも,新不動産登記法の研修会場で,講師に対して,「不動産登記令の別表の見方が判らない」というような法律専門職にあるまじき質問はしなくて済むように(^^;)。

 研修会場での質疑応答の光景が未だ記憶に残っている時に,日司連から月報司法書士2月号が届けられた。この2月号に,昭和39年の「真崎答申」のことが紹介されている。真崎答申で千葉会の故真崎龍一先生は,司法職務定制以来,「証書人,代言人は不断の努力をもって,幾度か,法制他の累進を図り,公証人又は弁護士としての今日の社会的地位を獲得した。しかるに,代書人は自らを狭い視野に立て籠もって,その日その日を安逸に過ごし,いまだに代書人の域を脱し得ない感がある」と慨嘆されている。この真崎答申から41年経ったが,この間の司法書士の不断の努力は如何ようであったのか。司法書士に簡裁代理権を与えた司法書士法改正から2年が過ぎようとしている。この改正が財界の弁護士会に対する当て馬であり,ショック療法であるにしても,司法書士が従来どおりのルーチン業務だけの「狭い視野に立て籠もって,その日その日を安逸に過ごし」ていると,司法書士は過去の資格として語り草になりかねないと思うが,如何。

 話が横に逸れ始めたようであるが,学究の徒の意識があっても,最終章の幕が切って降ろされたことは認めざるを得ない。その所為か,最近は,貧乏学生当時は欲しくても手に入れることのできなかった我妻栄先生の著作を求めて,改めて「我妻民法」の門を叩いている。管理者の青春は,我妻民法であった。民法講義(岩波書店),ダットサン民法(一粒社から勁草書房へ),民法案内(一粒社から勁草書房へ)コンメンタール民法(日本評論社)等々,どれ一つとして読み込めたものはないが,最終章に入って我妻民法に再入門をしたのは,嘗て,これらの著書から我妻先生の思想や人格の何パーセントかを感じ取ったからではないかと思う。最近の学者の民法の本を買い求めて読んでみたが(最新の判例や理論は載っているが),どうもしっくりしない。どうやら,若い頃,我妻先生に洗脳されてしまったのかもしれない。

 去年の夏,山形県を旅行したが,我妻先生は米沢市の出身である。山形県米沢市で明治30年生まれ。旧制一高,東京帝国大学法学部卒業後,東京大学教授,法務省特別顧問等々を歴任された。また,関東軍参謀で,五族協和,王道楽土を目指した満州国建国の立役者と謂われ,東条英機と真っ向から対立した石原莞爾中将も山形県出身である。山形県鶴岡市で明治22年生まれ。陸軍幼年学校,陸軍士官学校,陸軍大学卒業だが,東条英機に干されて第16師団長で終わる。山形県は管理者の先祖の出身地でもあり,過去何回か旅行しているが,奇しくも,この二人の天才が山形県出身ということには感慨深いものがある。

 米沢市には,我妻先生の生家が保存され,「我妻栄記念館」として公開されている。なお,来館者の殆どは,法曹関係者だそうである。