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7月30日の日本経済新聞に「働くということ〜夢を実現できますか〜」という特集で次のような記事が載っていた。 ……「子供にやすやすと追い越されるわけにはいかない」。システム開発のクエスト常務の長浜隆(57)は最近,28歳の息子がライバルに見えてきた。 息子は6年前,大手ゼネコンに入社。マンション開発会社を経て,4月には急成長する不動産投資ベンチャーに転職した。疲れているはずなのに深夜帰宅後,居間で喜々として仕事の話しをする表情がまぶしい。 着実にキャリアを重ね,頼もしい反面,うらやましくも思える。「もう一度オレもやってみよう」。20歳のころ目指した弁護士に再び挑む決心をした。 30年前に他界した父親は仕事に厳しく,面倒見が良い弁護士だった。父にあこがれ,司法試験を受けたが5度失敗。25歳で商社マンになった。その後,旧和光証券に移り,法務や公開引受業務で腕を磨き,クエストに役員として招かれたのは5年前だ。 「充実した仕事人生」に自負はある。だが,「父に近づけたか」とも自問する。長浜は,父と息子に背中を押され,帰宅後に法律書を開き,法科大学院に進む準備を始めた。60歳間近の挑戦は正直言って怖い。それでも「弁護士になって息子の不動産投資業務を手伝いたい」。新たな夢を抱く。…… 「いまさら,司法試験を受ける気力も体力もないよ」と公言している自分が,新聞記事に,ふっと「法科大学院の入学適性試験のの問題とはどういうものなのだろうか」と心を動かしてしまうさまには,己を振り返って苦笑せざるを得ない。頭に白いものが目立つ頃になっても,ぐずぐずと昔の夢を引きずっている。恐らく墓場まで引きずって行くだろう。でも,これは男の性から,仕方がない現象なのだ。この点が,男と女の本質的違いだ。森村誠一著「雪の蛍」に次のような一文がある。 『女は決して(夢を見るような)ロマンチックな存在ではない。精神より常に物質を信ずる。男に頼らなければ生きていけない女の生理的,歴史的な弱さは,女を必然的にリアリストにした。』 女のリアリステックさを具体的に表現したものに伊勢正三作詞作曲の<22歳の別れ>がある。「かぐや姫」とか「風」とかいうことばに,青春時代を懐かしく思い出す世代ならご存じだと思う。 あなたに さようならって 云えるのは 今日だけ 明日になって また あなたの暖かい手に触れたら きっと 云えなくなってしまう そんな気がして わたしには 鏡に映った あなたの姿を 見つけられずに わたしの目の前にあった 幸せにすがりついてしまった わたしの誕生日に 22本のロウソクを立て ひとつひとつが みんな君の人生だねって云って 17本目からは いっしょに火をつけたのが 昨日のことのように 今はただ5年の月日が 永すぎた春といえるだけです あなたの知らないところへ 嫁いで行くわたしにとって ひとつだけ こんなわたしの わがまま聞いてくれるなら あなたは あなたのままで 変わらずにいて下さい そのままで…… この歌詞を論理的に読むと,「どうして,好きな男と別れて,別な男と結婚するのか?」との疑問が湧くが,これなぞ,好きだということと結婚相手(現実の生活)は別だという,女のリアリステックさを表現している一例である。男からみれば,論理矛盾の女の言動だが,女にとっては当然の生き方なのだ。 尤も,男も女も夢ばかり見ていたのでは,現実の生活が成り立たないだろうし,他方,男も女も現実のことばかり考えていたのでは,社会が進歩しなかっただろうし,だから,男と女がアクセルとブレーキの役割を分担しているのだとでも論理構成すべきだろう(^_-) |