“「くるま」村の映画館” 
「栄光のル・マン」
(PART 4)
アメリカ映画1971年度作品
(思い出のテアトル東京で見たときの指定席券!!)
 
 “たかがレース映画!!されどレース映画!!”  
 “ストーリー 2 ”   
 “バックミラーにうつるオレンジ色の炎を見つめるマイク。その時、霧の中から、前を走る小さな車の影が現れた。すぐに前方に迫ったので、マイクは急いでステアリングをきり、この遅い車を抜こうとしたが、かえって左右のガードレールに激突、車は大破した。怪我のなかったのは幸いだった。 
 マイクが救急所に運ばれる時、アナウンスを聞いてかけつけたリサと顔が会った。相次ぐ2度の不運に、彼女は放心状態だった。記者たちに容赦ない質問を浴びて戸惑っているリサをマイクはそっと救い出してやるのだった。そして、マイクのトレーラーに連れて行きリサを休ませるのであった” 

 このマックイーンのクラッシュシーンについて面白いエピソードがありますので、再び「マックイーン最後のヒーロー」から引用させていただきました。 
 別の撮影日の午後、サーキットの違う区間で、デイヴィッド・パイパー(1969年「日本グランプリ」にジョー・シファートと共に来日し、ポルシェ917をドライブしたことは有名である)の917は、ガードレールに接触して、猛烈な勢いでスピンし、325フィート先のガードレールに再度激突。ポルシェはばらばらになり、タイヤが150ヤードも吹っ飛んでレタス畑に落ちた。パイパーは右足の3箇所に複雑骨折を負い、急いで病院に送りこまれた。ロンドンの医師たちは足を救おうと懸命の努力を続けたものの、結局、膝からしたを切断せざるを得なかった。 
 マックイーンはその事故を映画の中で再現しようと決心した。そのアクションをカメラにおさめるためには、917を猛スピードで走らせ、ブレーキを踏んでコントロールを失い、スピンしてコースの左右のガードレールに激突して、木っ端みじんになることが要求された。この演出されたクラッシュシーンには、観客たちに、高速走行中のレーシング・マシンのクラッシュがいかに凄いがを実感させ、手に汗を握らせようという意図があった。マックイーンは語る。「リモート・コントロールで動く車を使って事故を再現した」 
 それを14台のカメラでカバーした。3台はスローモーション、他の11台はそれぞれ違った角度からね。その上で、ドライバーの経験したとおりのことを観客が実際に目にしている気持ちになるように、フィルムを編集した。観客はドライバーが間違いをおかすのを目にするし、車がコントロールを失って、激突するのを目にする…すべて実際と同じ高速だ。マシンがようやく静止すると、カメラはドライバーの目となって粉々になったウィンドシールドを通して外を見る。クラッシュシーンが最初から通してスローモーションでスクリーンに広がると、ドライバーの頭の中、思考の中に入り込んでいくような気持ちになる。これまでの映画になったものとはまったく異なるものなんだ。

 
 “トップを走るポルシェNo.22を2台のフェラーリ勢が追う。ポルシェ・チームのマネージャー、タウンゼントは形成不利の中で、スターラーの車に支障を生じたチャンスをつかみ、急いでマイクを起用、No.21のドライブを命じた。” 

 この演出は、マックイーンが出場したあの「セブリング12時間レース」で、フェラーリが使った手段をそのまま使ったように思えてなりません。あの時は、リタイヤした“マリオ・アンドレッティ”を4位のフェラーリに急きょ乗せて、マックイーン組のポルシェ908をうっちゃって優勝したレースでありました。 

 “マイクを妨害する2台のフェラーリ。だが1台のタイヤが外れ、残りはスターラーのNo.8のみとなった。今度は2台のポルシェがNo.8の追い越しを阻んだ。3台のマシンはそのままゴールへ。ポルシェNo.22が優勝、マイクは2位だった。 
 長く苦しい戦いは今終わった。いつものことだが、ほっとしたような空しさが残った。(また会おうぜ…)マイクと視線のあったスターラーの目がそういって笑った。 
 優勝にわく人々をよそに、マイクはリサのほうへゆっくりと近づいていくのだった。” 

 とにかく私は、この映画で優勝しないで2位となるところがポイントではないかと思いました。そしてマイケル・デラニーは「ル・マン」もただのレースの1つさ…、といわんばかりに無関心にレースを終えるなんてところには、本当に仕事人といいましょうか、本当に惚れ惚れしてしまいます。 
マックイーンはこの映画製作により、あらゆるものを犠牲にしてやりとおしました。まさに、マックイーンのホビーを具体化したかのような映画でありました。 
ところで、1971年に発行された「ザ・モーター」誌に撮影時の貴重な写真が載っておりましたので少し引用させていただこうと思います。 
 
 
(左の写真は、撮影中当時のトップ・ドライバーで、マイクのモデルになったと思われる“ジョー・シファート”を乗せてサーキット内を走り回るマックイーン) 
(右の写真は、映画撮影について、本物のレーサーたちに対しミーティングを行うマックイーン) 

  
 コリ性のスティーヴ・マックイーンはこの映画を製作するにあたって、いかに忠実にレースを再現するかに神経を使った。ジョー・シファートをはじめブライアン・レッドマン、デレック・ベル、ヴィック・エルフォード、リチャード・アットウッドなど一流のドライバーが動員され、デビッド・パイパーはカメラをセットしたポルシェ917をドライブした(左写真の左サイドがパイパーのカメラカー)。 
 ル・マンといえば平均時速240km/hをマークするというハイスピードなレースとあって、撮影車もフォードGT40が使用された。この車はジョン・ワイヤー・チームのもので、1968年のル・マンではデビッド・ホッブスが乗ったものであった(右写真は、ルーフを切り落とし、カメラカーに変身した元ジョン・ワイヤー・チームのフォードGT40)。

 
 当初考えていたより長くなってしまい、自分ながら“スティーブ・マックイーン”という人間の奥深さを垣間見る思いがしました。「栄光のル・マン」の解説をと考えていたのでありますが、何かマックイーンの人生を語るページへと変わってしまいました。 
 「栄光のル・マン」は、まぎれもなく偉大なレース映画であると思います。誰がなんといおうと私は、そう断言します。さらに、レース映画というだけでなく“マックイーン”の俳優としてのピークに製作できたことがこの映画に活気と魂を与えていると思うのです。こんなセリフのない映画はないかもしれません。しかし、マックイーンのシワの入った額とその瞳で観客に訴える演技は、まさに絶品でありました。 
 マックイーンは、1980年11月7日、ガンの手術のあとの塞栓症と血液凝固により、亡くなりました。ところで、決して多くない彼の映画のどれを見ても彼のスピリットを感じます。それは、どんな時でも、体制に影響されない幼年時代から蓄積された彼の強い意志が、どの作品にも貫かれているからではないのでしょうか。 

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