独り言 “プロローグ”

今蘇る!不死鳥伝説「生沢 徹」
TETSU & 917K IN FUJI
1971年富士グランチャンピオンシリーズ 最終戦より(10月10日)
 その日も、私はいつものように当時流行っていた“ピンボール”をするために学校の近くにある後楽園遊園地のゲームセンターにいた。 ピンボールに熱中しているとやはり当時流行していた曲がいやにカッコ良く聞こえてくる。それは、カルロス・サンタナの“ブラック・マジック・ウーマン”、そして次ぎはシカゴの“長い夜”……、最高の曲だなと聞き入っていると、ピンボールの最後のボールを空振りしてしまった。私は、「ふっ」とため息を吐くとそのままゲームセンターを後にした。そして、星一つ見えない夜空を見上げながら、私は「明日は絶対晴れてくれよ!」と心で呟いていた。 
 翌朝午前9時、私は静岡県御殿場の富士スピードウェイのメインスタンドにいた。 
天候はあいにくの雨、それも半端な雨ではない。しかし私には絶対来なければならない訳があった。それは、あの大ヒーロー“生沢徹”が当時の最強マシン“ポルシェ917K”で出場するからなのだ。 
目の前で、第1レースが行われており、スーパーツーリングカークラスのスカイラインGTーRとカペラ・ロータリークーペがデットヒートを繰り広げている。 
 午後1時、やっと 富士グランチャンピオンシリーズ最終戦マスターズ250Kmレースの番となった。ポールポジションは酒井正の“マクラーレンM12”、期待の 生沢徹 の“ポルシェ917K”は3番手だ。その後に“風戸裕”のポルシェ908MK2、田中弘のシェブロンB19、そして高原敬武のローラT212と続く。
フォーメイションが終わり全車スタートラインにつく、そしてシグナルが変わり……ローリングスタートが始まる。約3分後、全車最終コーナーを廻ってストレートへ戻ってくる、ペースカーがピットに入りいよいよスタートだ。私は思わず立ち上がって息をのむ。 全車水煙を上げながらメインスタンド前を通りすぎていく。 
すごい!! まずマクラーレンM12がトップで30度バンクへ飛び込んでいく、そして私の目に一瞬 だが生沢のポルシェがマクラーレンを抜いてトップに立ったように見えた。 
そして長い沈黙の後、先頭でヘアピンへ現れたのは、もう1台のマクラーレンのT・アダモウィッツだった、すぐ後ろから酒井のマクラーレン、やや遅れて生沢のポルシェが続く。 何周か様子を見て、私は急いでヘアピンカーブへ移動することにした。 雨はまだ止む気配はなくますます強まるばかりで、私は愛用のカメラ“ペンタックスSP”をタオルで思わず包んでコーナーの金網に陣取った。 
 もう何周が過ぎただろう、生沢は2番手、風戸は数秒遅れて3番手だ。そんな時、何とトップの酒井が止まったとアナウンスが叫んでいる。「やった! 生沢がトップだ!」 
しかし、そんな私の願いは一瞬の夢だった。次の周、トップに立っていたのは必要に生沢を攻めたてていた風戸だった。すでに風戸は生沢に対して数秒の差をつけて力強く先頭を走っている。雨に強かったはずの生沢、一体どうしたんだ……? 
この富士マスターズ250Kmレースは、1971年10月10日に行われ、風戸裕がグランチャン初優勝したレースだ。カンナムカーとスポーツカーが一緒に走っていた良き時代のレースであった。それにしても生沢のポルシェ917Kは実にカッコ良かった。
実はこの917Kは、1969年の日本グランプリでジョー・シファートが乗ったマシンそのもので、先日もデビット・パイパーのドライブでTIサーキットオープニングに再び日本を走っている。(ボディーは、来日ごとに違っているが、私にとってのポルシェ917Kは、やはりこの日の生沢徹の乗った明るいグリーンに塗られたポルシェが最高である。) 
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Tetsu Ikusawa in Fuji at 1971
続きは、こちらへ。「帰ってきたTETSU」


 
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