「モデルカー・レーシング」歴伝

PART 2 
 
(1)“クライマックス”製クリヤー・ボディと私
 当時プラスチックボディが当たり前だった時代に、突如アメリカから輸入され始めた「クリヤーボディ」は、瞬く間に1966年当時の日本モデルカー・レーシング界を席巻し始めたのでした。透明なエンビ板(今のようなポリカではなく、すぐ割れてしまうエンビ板)やプチレート(写真フイルム素材)をバキューム成形したものでした。アメリカ製の“K&B社”“デュブロ社”“ランサー社”の商品をかつて蔵前にあった「モデルホービス商会」や、新橋の「ステーションホビィ」などが中心となって盛んに展開していました。それに対し、国産メーカーは、“タイメイ社”“大阪コンパ社”“ゴーセン社”ライト工業社”などが販売を開始しました。当初はコピーでしたが、だんだんと精密さで海外品を追いぬいていきました。当時の値段は、輸入品も国産品もなぜか400円という価格で売られていたのは、どういうわけでしょうか。そんな中、後発ながらクリヤーボディ製造業に乗り出して来たのが、今回のテーマである“クライマックス(株式会社クライマックス)”なのです。もちろん日本のメーカー(目黒)であるのですが、その生い立ちは謎で、分かっていることは1965年に1度だけ、モデルカー・レーシング・キット1/24スケール“アルファロメオ・カングーロ”を発売したことぐらいです。そんなクライマックスが、キット販売を諦め(?)て、クリヤーボディ業界に参入してわけは、たぶんに自社で持っていたであろう金型技術を有効に活かすための手段だったのではないかと思われます。
さらに、当時のクリヤーボディの特徴であるレースで有利な軽量さ、さらに裏から塗るという新しい技術(今は当たり前ですが…、当時は、分からなくて表から塗っていた人が本当にいました)とその簡単さ、そして、プラボディに比べ発売サイクルが実車登場から半年から1年以内に発売できる速さなどにより大人気となり、レースにおけるほとんどの参加者がクリヤーボディを使用するというフィーバーぶりであったのも参入を決意させた理由だと思われます。
 まず、クライマックス社が手をつけた車種は、1/32スケールの“メルセデス・ベンツF1(1955年製)”というかなり古いモデルと、1/24スケール“チャパラル2C”と“ポルシェ・カレラ6”でした。発売された年は、手持ちの資料によりますと、1967年の初めですが、1966年の科学教材社発行の「モデル・スピードライフ」誌を見てもクライマックスの広告はなく、同社は、上記“アルファロメオ カングーロ”発売後は、一時モデルカーレーシング業界から離れていたと思われます。
 1967年当時といえば、前年までの大ブームが嘘のように衰退してしまい、田宮模型にしても“ロータス40”“キング・コブラ”と続いていた新製品発売ラッシュもストップし、“ポルシェ・カレラ6”を発売したのを最後に、スポーツカータイプ・キットの開発を止めてしまうのでした。その後は、人気が出ていたアメリカン・ストックカーのマシン製作に方向変換していきました。まさしく、1967年当時のモデルカーレーシング界は、すでに組織化されたレーシングチームがプロ・フェッショナルなレース活動を繰り広げており、幼年者やアマチュアにはとても太刀打ちできないような世界になりつつあったのでした。
 1965〜66年に大量なモデルカーレーシング・キットを作りつづけた各メーカーも引き潮のごとくモデルカーレーシング業界から手を引いていったのもこの年からでした(COXやK&Bのキットがなんと1,000円以下でセールされていたのもこの時期でした!)。
 COX製1/32フォードGT500円!!1/24チャパラル1,000円!!その時代に戻りたい!
モデルカーレーシングは、みんなで楽しむスポーツ(?)から、1部のマニアのものになりつつあったのでした。クライマックス社は、そんな時代のレース・マニアに的を絞ったかたちで市場に登場してきました(あの田宮模型も一時クリヤーボディを発売したこともありました)。
 衝撃に弱く、ホイールアーチラインがあまく今一つの出来であり、田宮模型としては失敗作だったのではと思われます。
 プロ・フェッショナルなレースマニアは、こぞってクライマックス製クリヤーボディを使用し、レースで連勝を重ねていきました。
 クライマックスは、そのすばやい製作サイクルで、半年ごとに何台もニューカーを発売しつづけ、1971年までには、なんと下記に示すほどの数のクリヤーボディを作り続けたのでした。
クライマックス 発売車種リスト
NO スケール 車種名 価格 その他
1/32 メルセデス・ベンツF1 200 1966?
1/24 ポルシェカレラ6 300 1966?
1/24 チャパラル2C 300 1966?
1/24 ホンダ3LF−1 300 1967
1/24 ブラバム・フォード(インディ) 300 1967
1/24 フェラーリ330P3 300 1967
1/24 チャパラル2D 300 1967
1/24 チャパラル2E 300 1967
1/24 ローラT70MKIII 300 1967
10 1/24 ローラT70MK3 480 1967マイティボディ追加
11 1/24 チャパラル2E 480 同上
12 1/24 フェラーリ330P3 480 同上
13 1/24 ブラバム・フォード(インディ) 480 同上
14 1/24 ホンダ3LF−1 400 同上
15 1/24 *フォードMK4 400 1968全マイティボディ(値段変更)
16 1/24 STPスペシャル(インディ) 400 同上
17 1/24 ポルシェカレラ10 400 同上
18 1/24 ニッサンR381 400 同上(初期型)
19 1/24 *マクラーレンM6A 400 同上
20 1/24 トヨタ 7 400 同上
21 1/24 ニッサンR381 400 同上(後期型・オープン)
22 1/24 ロータス・タービン(インディ) 400 同上
 
23 1/24 オリジナルスポンジタイヤ 140 初のタイヤ発売
24 1/24 *ポルシェ908 400 1968.10
25 1/24 *マクラーレンM8A 400 1969.1
26 1/24 *フェラーリP4CAN−AM 400 同上
27 1/24 マクランサ 400 同上
28 1/24 *68インディ・ブラバム 400 1969.2
29 1/24 *68インディ・イーグル 400 同上
30 1/32 フェラーリP4CAN−AM 350 同上
31 1/32 フォードMK4 350 1969.3
32 1/24 *マッキー・SPL 400 同上
33 1/32 *ロータス・タービン(インディ) 350 1969.4
34 1/24 *ロータス49B(F−1) 400 同上
35 1/24 マトラF−1 400 同上
36 1/24 ローラT70MK3(新金型) 400 1969.5
37 1/24 *ローラT160 400 同上
38 1/25 *マーキュリーサイクロン(ストックカー) 400 同上(初のストックカー)
39 1/25 *フォードトリノ 400 同上
 
40 1/24 フェラーリ612 400 1969
41 1/24 フェラーリF−1 400 同上
42 1/24 プリムスロードランナー(ストックカー) 400 同上
43 1/24 ポルシェ917ショート 400 同上
44 1/24 ポルシェ917ロング 400 同上
45 1/24 マトラGT 400 同上
46 1/24 ニュートヨタ 7 400 1970
47 1/24 ニッサンR382 400 同上
48 1/24 マクラーレンM12 400 同上
49 1/24 エルフィンローラ 400 同上
50 1/24 チャパラル2H 400 同上
51 1/24 マクラーレンM8B 400 同上
52 1/24 オートコーストTi22 400 1971
53 1/24 ポルシェ917デイトナ 400 同上
54 1/20 フロンテ8S(ミニカーシリーズ) 400 同上(新たなスケール)
55 1/20 スバルR2(同上) 400 同上
56 1/25 ダッチチャージャー 500 同上(ストックカーのみ値上がり)
57 1/25 ダッチチャージャーデイトナ 500 同上
追加 1/24 ポルシェ908スパイダー 400 1969?
 
 このリストの中で、私が選ぶBEST OF BODYは、初期であれば、“ホンダF−1”がとても良い出来だと思いますが、最も仕上がりが良かった製品としては1968年発売の“マクラーレンM6A”および“ポルシェ908”ではないかと思います。クリヤーボディの欠点であるサイドの丸みの表現がとてもすばらしく仕上がっており、当時の金型製作者の技術が光る傑作です。その後の“ニュートヨタ7”や“ニッサンR382”もすばらしかったのですが、それに引き換え、どうもチャパラル関係は、あまり良い出来ではなく、金型製作者が違うのではないかと思ってしまいます。
現在でも続く“スーパースロット”“クリア”用ボディの元祖的存在であり、なんともリアル感に欠けるものでありました。
 1971年頃から、新興メーカーの「ミニオートモデルス(上の写真)」の台頭によりクライマックス社は斜陽となりいつしか消えていったのでした。私も自作クリヤーボディを製作しサーキットで販売した立場として、クライマックス社の衰退はなにか淋しいものでありました。それは、“モデルカー・レーシング”という名が“スロット・レーシング”と呼ばれるようになった頃の出来事であり、私自身も、その後約15年間モデルカー・レーシングとは無縁の状態となる直前の出来事でもありました。
 いずれにしても、私は、クライマックスの発展と共にモデルカー・レーシングを楽しみ、そしてその衰退と共にその長かったレーシングカー・キャリアに終止符を打つのでした。時、1973年でありました。
(つづく)
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 C 1999.6.19 by Hirofumi Makino
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