このたびは、“「くるま」村の少年たち”という独断と偏見により書かれたホームページをご覧いただき誠にありがとうございます。作る立場や乗る立場での見解とは違い、私は、“傍観者”という立場でこのホームページを書かせていただいております。ただ、「モデルカー・レーシング」の経験を通じ“本物のレーシングカー”を知る事が出来た事が唯一の経験であります。また、「富士グランチャンピオンシリーズ」は、初年度の1971年より実際に見ることが出来ましたので、当時の雰囲気をお伝えする事が出来ると思います。
1960年代といいましても、私の場合は、1966年頃の記憶から“くるま”というものの認識が始まっており、それ以前では、「Oゲージ鉄道模型」や「ダイヤペット・ミニカー」などで遊んだ記憶しかないのであります。丁度、「第3回日本グランプリ」が行われた年でもあり、「モデルカー・レーシング」の大ブームも同年ということで私の独断で1966年からということにさせていただきました。 さて、1966年当時の日本とは、いったいどのような国であったのでしょうか。モーター・スポーツが成り立つ条件は、資金力がなければ出来ませんし、その当時の国の経済を理解せずには語る事も出来ません。 ここに、その当時を語った“政治・経済”の参考書がありますので、その文章を少し借りてここに書いてみました。 「高度経済成長とその要因」 “1955年ごろから、日本経済は「日本の奇跡」といわれた高度経済成長(高度成長)を続けた。これは経済復興が終わったことを示すものであり、1956年の『経済白書』は、1955年の経済を「もはや戦後ではない」と評した。高度成長は、第一時石油危機が起こった1973年まで続き、この間の実質成長率は、年平均で10%台に達した。また1955年から15年間のGNPは、実質値で4.2倍にも増えた。 長期にわたる高度成長は、1965年の不況をはさんで、前期と後期に分かれる。前期の高度成長を第一次高度成長、後期のそれを第二次高度成長とよぶが、年平均成長率では第二次高度成長期が上回っている。この間、第一次高度成長期には、神武景気(1955〜57年)、それを上回る岩戸景気(1958〜61年)、短期のオリンピック景気(1963〜64年)の3回にわたる好況を、第二次高度成長期には戦後最長のいざなぎ景気(1965〜70年)を、それぞれ経験した。 二次にわたる高度成長の過程で、重化学工業を中心とする生産力は大幅に増大した。それによってGNPは増加を続け、1968年には、資本主義世界でアメリカに次ぐ第2位に上昇した。高度成長がもたらした変化は、生産力の増大という量的拡大だけではなかった。欧米からの積極的な技術革新の導入によって、鉄鋼・造船・電子・石油科学などの重化学工業が発達し、産業構造が変わった。それにともなって雇用者が増え、自営業者や家族従業者の割合がしだいに低下していった。雇用者の賃金が上昇しただけでなく、上下の格差は縮小して所得の平準化が進んだ。” 以上の内容でもわかるように、1966年当時の日本経済は、まさに「高度成長時代」であった事が分かります。前年の1965年に、“富士スピードウェイ”が完成したこともこの時代だからこそ出来たことではないでしょうか。とにかく、“消費の時代”の到来により子供たちの“おもちゃ”も贅沢になってきたのです。特に、「モデルカー・レーシング」は、「鉄道模型」と同じようにそれまでの外での遊ぶ道具とは違ってとても贅沢な遊びでありました。もともと、イギリスの良家の子供たちの遊びであり、その後裕福なアメリカに渡り、60年代になって日本に渡ってきたものでありました。ちょうど、その頃の日本での“模型”事情はというと、「マルサン商店」(日本における“プラモデル”の商標を最初に持った偉大なるメーカー)などの活躍により、プラスチック・モデルが、模型界で主流となってきた頃でありました。また、「高度経済成長とその要因」でも、書かれていた通り、重化学工業の発達が、より拍車をかけ、1960年代は、プラモデル・メーカーの創設ラッシュで大いに盛り上がったのでした。そんな時代を私は、少年時代ではありましたが、それらメーカーとともに生きていけたことを大変うれしく思っています。また、どこのメーカーも、1965年頃から始まる「モデルカー・レーシング」ブームは、初めての経験であり、外国製のコピーからはじめて、やがて、田宮模型のように、世界で通用するメーカーも生まれました。今や、世界の田宮模型といえども、このブームで学んだ事がとても多かったのではないだろうかと私は思います。60年代「モデルカー・レーシング」の世界を、ご覧になりたい方は、「60年代モデルカー・レーシングの華麗なる世界!」を、クリックしてください。
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