その昔、
「福沢幸雄」という男がいた!!
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“おれの青春!レーサー福沢幸雄”
当時“サチオ”は、レース関連雑誌よりもイメージ先行の“ファッション誌”や下の記事のように“ボーイズ・ライフ”などの若者向け雑誌に特集で載ることが多かったようです。 (1968年「ボーイズ・ライフ」12月号に組まれた”サチオ”特集)
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“サチオ”のプロフィール
昭和18年6月18日、フランス・パリ生まれ。晩年25歳。当時フランス大使館に勤務していた父親・進太郎氏(当時慶大法学部助教授)とフランスへ歌の勉強に来ていたギリシャ人のアクリヴィーさんとの間に生まれました。第2次大戦後、家族と共に帰国し、慶応義塾の中等部、高校をへて同大学法学部へ進学。在学中からモーター・スポーツに親しみ、いすゞファクトリーの1員となり、ベレットGTで船橋サーキットにかよい、昭和41年1月トヨタ・ファクトリーの契約ドライバーとなりました。 トヨタでは、スポーツ800,1600GT、2000GT、トヨター7に乗り、数々のビッグイベントで好成績をおさめてきました。特に、1968年11月、富士スピードウェイでおこなわれた“日本CAN−AM”での健闘が記憶にあたらしいところです。このレースでは、なみいる外人プロフェッショナルと7リッターのビッグ2座席レーシングカーを相手に、3リッターのトヨター7で戦い総合4位。日本人選手の中では第1位という成績をおさめました。 また、トヨタ2000GTでは、66年秋に同社が茨城県谷田部の自動車高速試験場でおこなわれた“スピード記録挑戦”に参加、4人のチーム・メートと交代でハンドルを握りながら70時間あまりを走りきって輝かしい記録をうちたてました。 レーシング・ドライバーとして活躍するかたわら、服飾メーカー“エドワーズ”の取締役・企画部長を勤め、さらに男性ファッション・モデルとしても知られていたおりました。(ちなみに、私は“サチオ”が作っていた当時の服は知りませんが、後年私自身“エドワーズ”のセンスの良さで大ファンになっていました。きっと“サチオ”のセンスの良さがずっと“エドワーズ・イズム”として伝わり続けていたからではないのでしょうか。ちなみにこの“EDWARD’S”のラペルは私が当時かぶっていたハンチングからのスキャンです。とにかくヨーロピアンしてたなぁ〜と、しみじみ思い出しているところです。本当にお世話になりました!) 明治の偉人、福沢諭吉のひ孫だが、“毛並みの良さ”を話題にされるのを好まず「僕自身のパーソナリティーを評価してくれ」というのが彼の主張でありました。日本のモータースポーツ界では異色の存在だったといえます。 私は、25歳の若さでコース上に散った“サチオ”を絶対に忘れることが出来ません。しかし、何とこの時代のドライバーは、すさまじい個性があり、そしてすばらしい人間ばかりだったのでしょうか。 |
“サチオ”グラフティ
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