その昔、 
「福沢幸雄」という男がいた!! 
  
 1969年2月12日午前11時45分、場所は静岡県袋井市“ヤマハ・テストコース”において、“サチオ”こと「福沢幸雄」が操縦していた“トヨタ7”は、突然コントロールを失い土提に激突、そのまま炎上し“サチオ”は絶命した。 
 昭和18年6月18日に生まれてから“サチオ”が生きたのは、わずか25年と8ヶ月でありました。 
 私が、福沢幸雄知ったのは1967年に数々の耐久レースを制覇していた当時の“トヨタ2000GT”のドライバーとしてが最初でした。その後歌手の“小川知子”との噂などで有名になりますが…。 
当時の日本レース界は、日産、トヨタの限りを尽くした戦いが日本グランプリを通して続いている時期であり、特に1968年に行われた「第5回日本グランプリ」での“サチオ”の活躍や、同年行われ「日本CAN−AM」においての4位入賞などが彼のレース人生においての絶頂であったのではないかと思われます。 
 彼の死は、単なるトヨタの1ドライバーから日本のトップ・ドライバーへと登りつめていく途中での突然の死であり日本レース界に与えた損失は大きかったのではと思います。仮に今の安全基準が当時あれば助かったのではとつい思ってしまいます。そういえば、1960年代後半は、世界でも有名ドライバーが相次いで事故死しており、“ジム・クラーク”、“ブルース・マクラーレン”、“ヨッヘン・リント”など超有名ドライバーが命を落していました。 
 では、「福沢幸雄」とはどんな人間だったのか、わかる範囲で書いて見たいと思います。
  
 
 “おれの青春!レーサー福沢幸雄” 
 当時“サチオ”は、レース関連雑誌よりもイメージ先行の“ファッション誌”や下の記事のように“ボーイズ・ライフ”などの若者向け雑誌に特集で載ることが多かったようです。 
 (1968年「ボーイズ・ライフ」12月号に組まれた”サチオ”特集) 
  
 ここに、当時の「ボーイズ・ライフ」誌の特集記事があるので内容を少し引用させていただきます。 
 “彼はこのマシンが好きだ。単なるレーサーとしてだけではなく、テスト・ドライバーとして設計図の時から見守ってきたからである。マシンの名は「トヨタ7」。V8気筒3000cc、最高時速300キロ。流れるようなボディラインと太い2本のエキゾースト・パイプが人目を引くビッグ・マシンだ。 
 そして彼の名は「福沢幸雄」。トヨタ自工の若手レーサーである。25歳。今年の日本グランプリは初舞台のためか、後半の追い上げもむなしくシャフトが折れてリタイヤしてしまったが、最近ではマシンの特性をのみこんで数々のレースに優勝している。”
  
 
  
 “ダンディ、ベスト・ドレッサー……そんな言葉がぴったりくる福沢幸雄。彼はモデルだけでなく自分で若者向きのシャツやスーツをデザインして売り出している。 
 「僕は何かを創造することが好きなんですね。カッコイイ洋服を身につけるよりも作り出していく課程に興味がある。車にしてもメカニックな部分にひかれるのであって、決して表面的なカッコよさに満足しているのではありません。それにモデルはあくまでも副業です。レーサーの給料だけでは、まだ食えませんからね。」” 
 彼の尊敬するドライバーはフェラーリのジャッキー・イクスだ。ヨーロッパへ行ったときにイクスの走りっぷりを見て頭にきたという。あまりに見事に走るのでシャクにさわったのだ。将来の目標はもちろん世界のF−1レーサーになることである。グラハム・ヒルやイクスと互角に走ってみたいのだ。しかし日本のモーター・スポーツの進歩は、ここ2,3年来、驚異的に伸びてきているから、福沢幸雄の夢も決して実現不可能なことではない。 あるいは予想以上に早く正夢になるかもしれない。なにしろ彼は若いのだから!”
  
 
“サチオ”のプロフィール 
 昭和18年6月18日、フランス・パリ生まれ。晩年25歳。当時フランス大使館に勤務していた父親・進太郎氏(当時慶大法学部助教授)とフランスへ歌の勉強に来ていたギリシャ人のアクリヴィーさんとの間に生まれました。第2次大戦後、家族と共に帰国し、慶応義塾の中等部、高校をへて同大学法学部へ進学。在学中からモーター・スポーツに親しみ、いすゞファクトリーの1員となり、ベレットGTで船橋サーキットにかよい、昭和41年1月トヨタ・ファクトリーの契約ドライバーとなりました。 
 トヨタでは、スポーツ800,1600GT、2000GT、トヨター7に乗り、数々のビッグイベントで好成績をおさめてきました。特に、1968年11月、富士スピードウェイでおこなわれた“日本CAN−AM”での健闘が記憶にあたらしいところです。このレースでは、なみいる外人プロフェッショナルと7リッターのビッグ2座席レーシングカーを相手に、3リッターのトヨター7で戦い総合4位。日本人選手の中では第1位という成績をおさめました。 
 また、トヨタ2000GTでは、66年秋に同社が茨城県谷田部の自動車高速試験場でおこなわれた“スピード記録挑戦”に参加、4人のチーム・メートと交代でハンドルを握りながら70時間あまりを走りきって輝かしい記録をうちたてました。 
 レーシング・ドライバーとして活躍するかたわら、服飾メーカー“エドワーズ”の取締役・企画部長を勤め、さらに男性ファッション・モデルとしても知られていたおりました。(ちなみに、私は“サチオ”が作っていた当時の服は知りませんが、後年私自身“エドワーズ”のセンスの良さで大ファンになっていました。きっと“サチオ”のセンスの良さがずっと“エドワーズ・イズム”として伝わり続けていたからではないのでしょうか。ちなみにこの“EDWARD’S”のラペルは私が当時かぶっていたハンチングからのスキャンです。とにかくヨーロピアンしてたなぁ〜と、しみじみ思い出しているところです。本当にお世話になりました!) 
 明治の偉人、福沢諭吉のひ孫だが、“毛並みの良さ”を話題にされるのを好まず「僕自身のパーソナリティーを評価してくれ」というのが彼の主張でありました。日本のモータースポーツ界では異色の存在だったといえます。 
 私は、25歳の若さでコース上に散った“サチオ”を絶対に忘れることが出来ません。しかし、何とこの時代のドライバーは、すさまじい個性があり、そしてすばらしい人間ばかりだったのでしょうか。
 
“サチオ”グラフティ 
  
 1967年7月23日、鈴鹿サーキットで行われた「鈴鹿12時間レース」にての優勝した“サチオ”と“トヨタ1600GT”。 
まだ、あの“スカイライン2000GT−R”が登場してない時代のツーリング・カーの王者がこの“トヨタ1600GT”でありました。 
このレースには、北野元の“フェアレディ2000”や“ダイハツP−3”なども出場していましたが、耐久性で抜群の信頼があるこの“トヨタ1600GT”が1〜2位を独占した記念すべきレースでありました。この時も“サチオ”は、光っていた!!
  
 
 
 
 1968年“サチオ”は、ますます光り輝きはじめました。 
5月3日の「第5回日本グランプリ」では、後半2位まで順位を上げていながらマシントラブルでリタイヤするのですが、その後のレースではトヨタ・チームにおいてはたえずトップでゴールする好調さでありました。この写真は9月23日に行われた「鈴鹿1000kmレース」で優勝したときのものです。この後、“サチオ”は、「日本CAN―AM」でも日本人最高位の4位に入るのでした。
 
 
 
  
 左の写真は、トヨタ・チームの3羽ガラス。 
左から、蟹江、鮒子田、そして“サチオ”。 
右は、富士スピードウェイで練習にはげむ“サチオ”。
  
 
  
 1968年5月3日の「第5回日本グランプリ」スタート前の“サチオ”と11月23日「日本CAN―AM」で、往年の有名ドライバー“スターリング・モス”と話す“サチオ”。
  
 
“「SACHIO」とかかれたトヨタ7のマフラーキャップ”

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