偉大なる月刊誌だった「AUTO SPORT」(企画1)
「’72国内ビッグ5ドライバー・コンテスト」
 1960年代、日本における“くるま文化”とは、モーター・スポーツの発展により進化したと言っても過言ではありませんでした。それは、日本グランプリ・レース等の異常なまでの盛り上がりにより、メーカーの士気が上がり、それにより技術も格段の進歩をたどり、後の車生産国世界一となっていく基盤を作りました。
 そんな中、モーター・スポーツ情報を私たちにたえず送り続けてくれた月刊誌がありました。それが今回企画した“AUTO SPORT”です。
“AUTO SPORT”は、当初同じ三栄書房発行の「モーター・ファン」の別冊(季刊誌)として、1965年(…だと記憶しておりますが、詳しくご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください)にスタートしました。
 私は、1967年の1月号(ホンダF1に乗るジョン・サーティーズの表紙)から購入しだしたのですが、すぐにその内容の面白さに感銘して、古本屋でバックナンバーを探し、買い揃えたものでした。
私は、その12月号により初めて、ジム・ホールのチャパラル2E(フリッパー付き)と、ジョン・サーティーズのローラT70MKUを知ることが出来ました。また、その記事から、当時の日本製レーシングカーとの格差を痛切に感じて、今でも1966年12月号は、忘れられない1冊だと思っています。
さらに、当時のアメリカ・フォードの新兵器“フォードJカー”や、世界一軽量なCAN−AMカー“ミラージュ”、そして、“チャパラル2C”“ホーメットTX(タービンカー)”などのレーシングカーを詳しく知ることが出来たのも全てこのAUTO SPORT誌のおかげであります。
このAUTO SPORTは、モデルカー・レーシングを楽しんでいた当時小学校6年生の私にとって、まさにバイブル的存在あり、今の私の思考機能を動かしている原動力の1つであると思えてなりません。
 そんなAUTO SPORT誌の数多くあった特集記事の中でひときは目立ったのが、1971年に行われた読者投票で選ぶ「人気ドライバー・コンテスト」企画でありました。AUTO SPORT誌は、数ある自動車雑誌の中でもどちらかというととても目立つ雑誌であったと思います。当時の月間漫画雑誌に例えれば、断固としたポリシーを突き通す「少年」が、小林章太郎率いる「カー・グラフィック」誌にあたり、AUTO SPORT誌は、ビックXや宇宙エースなどの最新SF漫画と斬新な企画で人気を呼んでいた「少年ブック」に該当するのではないかと思います。さらに、AUTO SPORTは、アイドル・スター御用達の月刊「平凡」、「明星」に合い通じるミーハー的(編集部の皆様、すみません!)な要素を兼ね備えていたように私は感じていました。
 その代表的な企画が、今回取り上げさせていただいた「’72 国内ビッグ5ドライバー・コンテスト」であります。まさに、この企画は、“あなたが選ぶアイドル・スター(または、GS)人気ベスト10コンテスト”と肩を並べる(?)超ミーハー的なものであったと思えてなりませんが、当の私も投票してしまいましたのでこれについては何も言えないのが本音であります。
 今回紹介する「’72国内ビッグ5ドライバー・コンテスト」は、1971年(1967年5月号AUTO SPORT誌に掲載されていた“レーシング・ドライバー人気投票”が記念すべき第1号であります)にその前身であった「人気ドライバー・ベスト10」の第2回目として1972年1/15号にその要綱が発表されました。
当時、社告として書かれていた内容を引用させていただきましたのでご覧ください。
■社告
’72国内ビッグ5ドライバー・コンテスト要網きまる!
 1月1日号でお知らせした読者参加企画“国内ビッグ5ドライバー・コンテスト”のレギュレーションが決定した。これは昨年行なった“人気ドライバー・ベスト10”を発展させ、多数の読者の意見をもとに企画を練り直したものである。
<各選考基準>
●人気ナンバー・ワン賞
 読者の投票によって、最大多数の票を獲得したドライバーに贈られる。ただし、この賞は昨年以上に接戦が予想されるので、人気第2位、第3位にもトロフィーを贈呈してその栄誉をたたえる。
昨年のベスト3は、生沢徹、高橋国光、鮒子田寛の各選手だった。
●テクニック賞
 71シーズンに参加したドライバーの中から、最も技量が優れていると思われるドライバーに贈られる。
その判定は、シーズンを通じて認められる技量でも、ある1イベントで印象に残った技量でも構わない。これも読者の投票によって10人のドライバーをシードし、そのうちから本誌が指名した選考委員によってベスト・テクニック・ドライバーを選抜する。
●ベスト・ウィニング賞
 71シーズンにおいて、JAFが公認した準国内以上の格式のレースに参加したドライバーで、優勝回数がもっとも多かった人に贈られる。
優勝の内容は、公平を期すために各クラスの1位獲得者に限る。また、準国内のレースは1点、国内レースは2点、国際レースは3点というポイント制にして、その合計点がもっとも多かったドライバーをベスト・ウィナーとする。したがって、この賞は読者の投票によらず、あくまでも実績によって決定させる。
●ルーキー賞
 71シーズンにおいて、JAFが公認した制限付以下のレースに参加したドライバーの中から、最も実力があり将来に期待できると思われるドライバーに贈られる。その判定基準は、クラス優勝回数の多いドライバーを10人シードし、そのうちから本誌が指名した選考委員によって1名が選抜される。
<投票期日>
 このコンテストはAUTO SPORT誌2/1号が発売された日(12月27日予定)から開始され、2月10日で終了する。中間発表は、2/15号、3/1号、3/15号に記載され、4/1号で最終結果が発表される。
表彰式は3月10日。東京・晴海で開かれる第5回東京レーシングカー・ショー会場で、栄えある7名のドライバーをたたえるレセプションを企画している。
(ちなみに、三栄書房は、1969年に始まる東京レーシングカー・ショーをサポートし続け、事務局としてモータースポーツの発展に努力を続けていました)
<投票のしかた>
 投票用紙は官製ハガキ。そのさい、AUTO SPORT誌2/1号から3/15号までの各号に印刷されている投票シールを貼る事をお忘れなく。
 記入のしかたは
(1)人気ナンバー・ワン賞候補
(2)ファイティング賞候補
(3)テクニック賞候補
ーーーの以上3賞に該当すると思われるドライバーを、それぞれ1名づつ記入(連記)する。
<選考委員の顔ぶれ>
 ファイティング賞、テクニック賞、ルーキー賞の各賞に該当するドライバーを選抜するために、本誌はつぎの5氏に選考委員をお願いした。
 大藪春彦・・・作家
 久保正明・・・モーター・ジャーナリスト
 星島 浩・・・モーター・ジャーナリスト
 望月 修・・・モータースポーツ評論家
 安友義浩・・・FISCOクラブ会長

 なお、各賞の決定したドライバーと、このコンテストに参加していただいた読者への賞典は、盛りだくさんな豪華賞品を次号で発表する予定。

’72国内ビッグ5ドライバー・コンテスト最終結果発表!!
人気は生沢、ファイティングに風戸、テクニックは片山 
 (以下、当時発表された4/15号の文章をそのまま引用させていただきました)
 1月1日から開始した読者参加企画、“’72国内ビッグ5ドライバー・コンテスト”は、2月29日をもって投票を締め切り、厳重審査の上5賞を決定しました。
 4回にわたる投票総数は実に69,627通(無効221通)。
 この企画に参加いただいた多くの読者の方々、選考委員の5氏、ならびに盛りだくさんな賞品をご提供くださったスポンサー各位に厚くお礼申し上げます。
 上の写真は、左から、人気ナンバーワン賞に送られるトロフィーであります。
前回に引き続き“生沢徹”(右写真左側)が獲得し、まだまだ衰えぬTETSU人気を裏付けるものでありました。そして、右側は、CAN−AM出場などで、昨年注目を浴びていた“風戸裕”であります。彼は、新たな賞であるファイティング賞をダントツの1位で獲得しました。
人気ナンバーワン賞
<読者投票結果>
順位
ドライバー名
投票数
1位
生沢 徹
23,581票
2位
風戸 裕
12,083票
3位
高橋国光
6,910票
4位
鮒子田 寛
1,875票
5位
片山義美
1,721票
6位
寺田陽次郎
982票
7位
黒沢元治
501票
8位
渡辺 一
338票
9位
北野 元
335票
10位
高橋晴邦
299票
 やはり生沢選手だった。支持率33.8%。
圧倒的な人気である。2位の風戸選手は17.3%。ただし彼の場合はファイティング賞候補としての得票率が高い。昨年の活躍は、スター・ドライバーとしての地位を確実なものとしたようだ。
以下、高橋(国)、片山、黒沢、北野ら、ベテランたちの安定した人気は当然のこととしても、6位にくいこんだ寺田陽次郎選手の急激な躍進が目立つ。昨年後半の健闘ぶりは、ロータリー・ファンにとってもうれしかったに違いない。今回、渡辺一選手が8位にランクされたことも、ファン層の新しい動きであろうか。

ファイティング賞
<読者投票結果>
 

順位
ドライバー名
投票数
1位
風戸 裕
20,520票
2位
田中 弘
14,226票
3位
片山義美
3,971票
4位
高原敬武
718票
5位
寺田陽次郎
671票
6位
酒井 正
649票
7位
高橋国光
556票
8位
北野 元
475票
9位
津々見友彦
470票
10位
鮒子田 寛
399票
 規定どおり、読者投票によってシードされた10人のドライバーのうちから、選考委員が1名を選抜した結果、得票でも1位の風戸選手に決定した。
 審査のプロセスを要約すると…
 まず、昨シーズンに最もファイティング・スピリットを示したドライバーは誰か?という観点から、風戸裕、田中弘、片山義美、津々見友彦、鮒子田寛の5選手が選考委員によって推挙された。
 風戸裕選手:CAN−AMに挑戦し、ランキング10位の成績を収めたことは特筆に値する。
72年日本グランプリで、ブラバムBT30・コルト(1.6リッター)を駆り、クラス優勝したこともプラス要因。
しかし経済的に恵まれていたから出来たということも否めない。
 田中弘選手:シェブロンによる鈴鹿ラップ記録更新、富士での戦績は立派。しかしマシンに助けられているのでは?
 片山義美選手:カペラでスカイラインGTR勢に敢然と立ち向かい、堂々の勝負をやってのけたのはさすが。切り込み隊長のイメージがある。
 鮒子田寛選手:苦労のスケールからいえば、津々見選手より大きい。マシンを持たずにアメリカへ出かけ、Trans-Amをトライした。カマロに乗って重傷を負ったが、それも経済的に苦労してボロ車に乗った結果ではなかったか。
ー5選考委員の各選手に対する評価は、ほぼ上のような内容だった。さらに昨年の実績を重視して、風戸、田中、片山の3選手に絞られ、あらゆる角度から検討を重ねた。
「恵まれている点では、3者同様である。風戸、田中は資金面で、片山は環境で恵まれていた。が、風戸の場合、自分よりはるかに体力的にまさるCAN−AMドライバーたちのなかへ飛び込み、シリーズを最後までやり遂げた。闘将というイメージは片山に最も感じるが、海外での実績からやはり風戸」
「風戸の人間像としては野武士的風格があり、外面の印象とはかなり違う。現代の若者に似合わず、礼儀正しいし、イヤなことがあっても顔に出さない。その点、田中弘にまさるのでは」
「もろ手をあげて賛成というわけではないが、風戸で順当」ー。
 以上のような経過をたどり、ファイティング賞は風戸裕選手に決定した。
(いやなんとも、当時の選考基準は、成績や実績重視というよりも各ドライバーの環境などを基準に決めていたようです。風戸裕は決して金持ちのボンボンではなくテクニックも大したものだったと私は思うのですが…)
 上の写真は、左からテクニック賞を獲得した“片山義美”、ベスト・ウイニング賞の田中弘、そして見事ルーキー賞を獲得した片山の実弟である“従野孝司”。
テクニック賞
<読者投票結果>
 
順位
ドライバー名
投票数
1位
高橋国光
15,971票
2位
片山義美
12,613票
3位
北野 元
4,590票
4位
田中 弘
4,459票
5位
生沢 徹
3,122票
6位
風戸 裕
2,913票
7位
酒井 正
952票
8位
黒沢元治
803票
9位
寺田陽次郎
551票
10位
津々見友彦
542票
 ファイティング賞と同様、読者投票による10人のドライバーの内から選考委員が1名を選出。得票ランキングでは2位の片山義美選手がテクニック賞を獲得する結果となった。
 その経過は・・・
 選考委員がシードしたテクニシャン・ドライバーは、高橋国光、片山義美、黒沢元治の3人。いずれ劣らぬ顔ぶれだが、やはり昨シーズンの実績が重視された。
「雨のグランチャンで、高橋と黒沢の二人が、あたかも晴天時のような走りっぷりを見せたのが印象強い。
しかし、シーズン後半は片山に追いこまれた感があった」
「昨シーズンの高橋には、彼本来の冴えが見られなかった。片山は、いろんな車に乗って腕のあるところを見せている」
「鈴鹿グレート20のとき、KE−RE−1に乗った片山にはすさまじい迫力があった」
「彼には抜群な反射神経がある。片山だからこそあんな車に乗れた」
「黒沢は今ニッサンでいちばんのびているドライバーだ。しかし、昨シーズンの実績でみれば片山」・・・。
 選考委員が一致して片山義美選手をテクニック賞候補に推挙した。参考までに、選考委員のつけたランキングでは、片山、黒沢、高橋、さらに北野、永松、高武らの名前があがっている。
ベスト・ウイニング賞
 昨シーズン、JAFが公認した準国内以上の格式のレースに出場したドライバーで、優勝回数が最も多かったものは誰か?全65イベントのうちから、それぞれのクラス・ウイナーを調べ上げ、準国内:1点、国内:2点、国際(準国際を含む):3点というポイントを与えて最多得点者を賞対象者とした。結果は・・・
田中弘選手:20点
黒沢元治選手:19点
高原敬武選手:16点
以下、鈴木誠一選手(12点)、清水弘選手(9点)、長谷見昌弘選手(8点)、堀雄登吉選手(8点)、成田修(8点)、酒井正選手(8点)とつづく。
ルーキー賞
 昨シーズン、JAFが公認した制限付以下のレースに参加したドライバーの中から、最も実力があり将来に期待できると思われるドライバー1名を、選考委員が選び出した。
 昨年の実績を見るために、クラス優勝回数の多いドライバーを順にあげてみると、
 7回:佐々木秀六、6回:沢田由夫、3回:野崎茂、岩佐実、立岡よし夫、清野憲治、村上英雄、
2回:従野孝司、その他8名の各選手。
イベントのほとんどは、鈴鹿シルバーカップなどに集中している。
 この16人の顔ぶれの中で、最も将来に期待できるドライバーとして、選考委員は全員で従野孝司選手を推薦した。従野選手は、70年にライセンスを取得し、レース経験わずか2年・出場回数9回ながら、すでにビッグ・イベントにも出場している。
 年齢は22歳。鈴鹿シルバーカップでの2勝は、わずか2回だけ出場したレースの戦果である。
・・・こうした理由が従野選手への受賞に結びついた。
 以上で、読者も含めた参加形式で、当時画期的だった「国内ビッグ5ドライバー・コンテスト」の結果を26年ぶりに再現してみました。
ところで、このコンテストが、いかに各ドライバーにとって影響があったかを証明するあるハガキを紹介します。これは、何らかに私が応募した住所を何らかの方法で調べて私宛てに配送されたものだと思います。
 
 “73’フジ・グランチャン第1戦迄あと1ヶ月 ジローモーターレーシングでは、今シーズンに全てをかけるべく、スタッフ全員一丸となってスケジュールを消化しています。
つきましては、現在雑誌オートスポーツで行なっているドライバー人気コンテストに皆様の御協力を得たくお便りしたわけです。我々プライベート・チームにとっては1票が、即スポンサー等に響くのです。
締め切り3月15日号が最後ですのであなたのお友達にも、ぜひ御協力して頂き 米山二郎を応援してください。”
ジローモーターレーシング
サポーターズ クラブ
 このハガキを見るまでもなく、当時のレーシング・ドライバーは、メーカー専属ドライバー(ワークス・ドライバー)以外で、レースを職業としてやっていけたドライバーは、“生沢徹”や“風戸裕”ぐらいなもので、他のプライベート・ドライバーは、ほとんどが借金などをしてやりくりしていたようでした。それは、現在と違ってスポンサーサイドのレースに対する理解度がまだまだ浅かったためと思われます。
よって、プライベート・ドライバーであった米山二郎(ガッツ・ジローで有名だった!)もクラブを通した形ではありますが、実質的な“お願い”には変わりありません。それだけ、このAUTO SPORT誌の人気コンテストはスポンサー獲得に影響があったいう良い証拠だと思います。
(おわり)


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