新たな時代へ変身を遂げた「1973年富士グランチャンピオンシリーズ」は、全車2リッターマシンでの争いとなったのでした。 |
レース・スケジュール
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私も、大学生となりわずかですがレース観戦の情熱が冷えかかった当時の73年、全戦観戦記録は、ついに第2戦で途切れてしまいました。そして、第4戦を観戦して、私の“富士グランチャンシリーズ”の記憶は、終了するのでした。“グランチャン”も3年過ぎると、誰もが勝てるレースというよりは、いかに“スポンサー”を掴み、“良いマシン”と“良いエンジン”と“良いメカニック”を手に入れるかが優勝する“カギ”となり、よりプロフェッショナルなレースへと変わっていったのでした。また、ニッサン、トヨタなどのファクトリーチームは、レーシングカーの製作は行なわず、より一般車に近いかたち、すなわち“ツーリングカー”によるレース活動を続けておりました。よって、ファクトリードライバーは、メーカー側の規定により、グランチャンのメインレースにはなかなか出場できないのが現状でありましたが、高橋国光の参加をきっかけにファクトリー側の考え方も変わり、全て外国製のマシンとエンジンならば、参加OKとなったのでありました。これにより、いっそうアマチュアドライバーの参加は、不可能となり、ある1部のレースチームとドライバーのみ優勝戦線に参加できるという本来の意味から少し外れた内容になってきたと思いました。将来的な不安を少し感じながらの私のグランチャン観戦記終了ということとなりました。(しかし、そんな心配をよそに、その後“グランチャン”は、10年以上続くのでありました!)
1973年度から大幅に変わったことがありました。なんといっても2年間続いた“ビッグ・マシン”の出場が禁止され2000ccまでのエンジン排気量に制限されたことでした。これにより、酒井正、高原敬武らのマシンは姿を消し、はじめて、ヨーロッパ2リッタースポーツカー選手権と同じ規則のレースが誕生したのでありました。 |
富士300キロスピードレース(3月18日)
50周300キロメートル
真打ち黒沢元治登場!! 1973年の富士グランチャンピオンの開幕にあたっての最大の注目は、なんといっても日産ワークスドライバーの座を捨て田中弘率いるヒーローズレーシングチームに入リ、最新の“マーチ73S”で出場する「黒沢元治」ではなかったでしょうか。1969年日本グランプリのウイナーであり、現在乗りに乗っているドライバーでありました。彼には、強力なスポンサーである「ブリヂストン」が全面協力しており、多いに活躍が期待されておりました。 この後、同じく日産の高橋国光、北野元もこのグランチャンに参加することになるのですが、黒沢が高橋と大きく違うことは、日産を辞めて出場してきているというこでありました。これが黒沢の意気込みに現れているところであり、高橋らと一線を引いているところでもあるのでした。(写真は、黒沢元治の“ブリヂストン・マーチ73S”) 私は、1973年になるとややグランチャンと距離を置くようになりはじめ、記憶も1971〜72年ほど覚えていない状態であり、それに伴って私が撮った写真も少なくなってきたのでありました。しかもこの年、私と親友“ハマ”とも、あれだけ熱中していた“モデルカー・レーシング”をやることもめっきり減ってきておりました。これは、何を隠そう“ハマ”が本物の自動車を買ってもらったことに原因があったような・…。この写真は、私の車ではなく、“ハマ”の三菱ギャラン2000GTO−GSLであります。写真の私は、“太陽にほえろ!”のジーパン刑事を意識したポーズでありまして・・・・?!ちょっと横道にそれてしまいましたが、要するに、本物の車を手に入れたことによって“モデルカー・レーシング”への情熱がなくなってしまったように私には思えたのでした。よって、グランチャンを観戦することについてもモデルカー・レーシングとの関連で夢中になっていた私とハマにとっても1つの決断をせざるを得ない状態にあったのでありました。ともかく、そうゆうわけでありまして・・・?! ということで、そろそろ本題に移らさせていただきますと・・・。 |
生沢とシグマGC73
ところで、我が生沢徹はというと、昨年までの“GRDS−72”をあきらめ、今年から、加藤真率いる“シグマ・オートモーティブ”の“シグマGC73・BDA”での参戦であります。(写真右が生沢徹の“シグマMC73”) 私は、親友“ハマ”と一緒に第1戦であった「富士300キロスピードレース」の予選だけでありましたが、観戦に行ったのでありました。まだ、コース脇に雪が残る3月17日、私たちは最初の観戦場所を富士スピードウェイの“ヘアピン・カーブ”脇に選んだのでした。今回の注目は、生沢の“シグマGC73”はもちろんのこと、日産を辞めた黒沢元治に最大の関心を寄せていました。黒沢の“ブリヂストン・マーチ73S”はF−1製造で有名なイギリスの“マーチ・エンジニアリング”が初めて製作した2000cc以下のスポーツカーマシンでありました。しかし、実戦経験はまだなく搭載されている“BMWエンジン”欲しさのマシン選択だったのではないかと思われていました(マーチ社は、当時最強であったF−2エンジン“BMW”を独占契約していた)。 マーチを選んだチームとしては、他に酒井正の酒井・レーシングが今年から2000ccに制限されたグランチャンシリーズ用に購入し、使い慣れたマクラーレンM12に変わって優勝を狙っています(写真左が酒井正の“ミノルタ・マーチ73S”)。 |
生沢がP.Pを奪取!!
予選中、最大の出来事はなんと言っても“黒沢元治”のヘアピンにおけるスピンでした。予選トップを狙うが為のスピンは、まさに圧巻でありました(写真は、スピンした黒沢のマーチをナイスショット!)。 また、前年まで“シェブロンB19”で頑張っていた田中弘は、鴻池スピード製“KS−02・BMW”で出場するがまだセッティングが上手くいかないらしい。同じヒーローズ・レーシングからは、将来有望なルーキーであった中野雅晴がデビューする。マシンは、前年田中の乗った“シェブロンB19”でありました。 予選は、詳しいタイムチャートが手元にないので順位とドライバー名、そしてマシンだけの紹介に変えさせていただきます。(資料お持ちの方がいたらどうか教えてください!) 結果は、ひさびさに徹がポール・ポジションを獲得する。今年は、いいことある予感がしてくる。頑張れ徹!!注目の黒沢は、5位でありました。また、三菱R39Bエンジン(1971年JAFグランプリ優勝車コルトF2000用エンジン)搭載の永松邦臣ドライブのベルコ72Eは、6位と今一歩でした(写真左は、田中のKS−02・BMW、右は、永松のベルコ72E)。 公式予選順位(上位6位まで)
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ルーキー・中野頑張る!
29台のマシンが最終コーナーを回りメインストレートに返ってくる。そして、ペースカーのフェアレディ240Zがピットに入り各車一斉にローリングスタート!! まず、生沢がトップで30度バンクへ突入する。2番手は、木倉のローラ、それをおって恐ろしいぐらいのペースで黒沢のマーチが3位につけてピタリと木倉をマーク。その後を鮒子田 寛のシェブロン、永松のベルコが追う。 3周目、2位につけていた黒沢が、バンクで生沢を捕らえて待望のトップに立つのでした。 10周目までに、酒井正、風戸裕、米山二郎、そして、5位につけていた永松をもマシントラブルやエンジントラブルでリタイヤしていったのでありました。酒井は、BMWエンジンが壊れたためであり、トップの黒沢とて安心できない状態となりました。風戸裕は、ヨーロッパF−2選手権で“G.R.D”を使っている関係から“GRD−S73・BDA”で出場するが、どうも富士とのマッチングが決まらず密かに“マーチ”購入を考えているとのことです(写真左が、風戸のGRD)。20周目となっても黒沢のトップは変わりませんでした。そんな頃、見崎清志、田中弘、柳田春人が相次いでリタイヤしていきました。 レースは、黒沢を激しく追っていた前年チャンピオン鮒子田がついに先頭に立つが、黒沢がピタリと後ろについて離れない。そんな時、生沢のシグマが24周目リタイヤしてしまうのでした。そして、26周目なんと鮒子田も戦列を離れ、これで黒沢の独走かと思われました。しかし、そんな黒沢も30周目無念のリタイヤし、デビュー戦を飾ることが出来ませんでした。 これら優勝候補が次々とリタイヤする中、確実に走っていた高原敬武のローラT292・BDAがトップに立ち、2位には、ルーキー・中野のシェブロン、3位にはベテラン津々見友彦のローラがつけました。 レースはその後変化がなくそのままゴールを迎えることとなりました。4位には、後の“日本一速い男 星野一義”がフェアレディ240Zで入り、とにかく波乱のレースでありました(写真右は、優勝した高原のローラ)。 次回は、3ヶ月後の「富士グラン300キロレース」であり、注目はなんといっても“日産3羽烏“の一人“北野 元”の登場であります。黒沢との一騎撃ちが実現するのか。また、好調生沢の動向も見逃せないたのしみな第2戦であります。 (つづく)
レース結果(上位10位まで)
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