“ザ・富士グランチャンピオンシリーズ 70’S”  

 1970年は、オイルショックのあおりを受けて早々に日産が日本グランプリ不参加を表明、続くように練習中に川合稔を失ったトヨタも出場を断念、ついには10月10日の日本グランプリをもレースが成立しないことを理由に中止を決定してしまったのです。まさに1970年は日本モータースポーツ界の暗黒時代のプロローグでもありました。 
そんな中、盛り上がりに欠けるフォーミュラリブレの日本グランプリを尻目に1971年よりスタートしたプライベーターだけのレースがありました。それは、メーカー色のない本当の意味でのモータースポーツの始まりでした。これが、80年代後半まで続く「富士グランチャンピオンシリーズ」なのです。1970年から71年までは「独り言」で書いているように“カンナム・マシン”による1969年の日本グランプリ風のレースが特徴でしたが、1971年に当時ヨーロッパで人気のあった2リッター・2シーターマシンによるレースの常勝マシンだった「ローラT212」「シェブロンB19」を日本の田中弘と高原敬武がグランチャンレースに持ち込んでからはそれらのマシンの速さとポテンシャルの高さがレース自体の人気を高め、1972年よりは、2リッターマシンのみにチャンピオンが懸けられることとなり、後のグランチャンマシン規定の基礎となったのでした。さて、1972年シーズンより2座席2リッターマシンにタイトルが懸けられることとなり、カンナムマシンの“マクラーレンM12”や“ローラT160”、それと“ポルシェ908スパイダー”などは、レース出場は可能でしたが、シリーズポイント対象外となってしまったのでした。前年チャンピオンの酒井正は、ミノルタカメラを新たにスポンサーとし、“ミノルタ・マクラーレンM12”で出場し優勝賞金のみを狙うこととなりました。このマシンは、前年のスタイルと大きく変わり、70年カンナムチャンピオンマシン“マクラーレンM8D”風のリアウイングを採用し、実にグッドスタイリングカーに変身していたのです。一方ローラT212で前年を戦った高原敬武は、打倒マクラーレンを目標に、何とFIAメイクスタイトル用マシン“ローラT280 DFV”を購入、酒井と同じく優勝賞金のみを狙うこととなりました。(実際のところは、規則改正前に現地オーダーをしたため使わざるを得なかったとのことでした)また、メーカー系ワークスドライバーが大挙この年よりプライベートとして参加し始めたことも大きな話題でした。トヨタよりフリーとなった鮒子田寛が、1971年度にM・ヘイルウッドとB・レッドマンが乗って活躍した元ワークスカーだった“シェブロンB21P”でエントリーし、三菱ワークスからは、71年日本グランプリ優勝の永松邦臣がフリーとして御大田中健二郎率いるチーム・マグナムより“ロンソン2000(ローラT290 R39B三菱)”で出場し優勝候補ナンバーワンと見られていました。そして、われらの生沢徹はと思えばイギリスの当時の新興メーカー“G.R.D”に特注したGRD S72にブライアンハートBDAエンジンを積んで出場することが決まっていました。その他ローラT290が3台、シェブロンB19など2リッターマシンだけで10台、それに国産マシンのべレットR6スパイダー、ベルコ72D、そしてフェアレディ240ZGなど常時23〜25台が揃う大変豪華なシリーズとなったのでした。 
 

“1972年3月20日 富士グランチャンピオンシリーズ” 

第1戦 富士300キロスピードレース 

 1971年の富士500キロレースより“グランチャン”(まだグラチャンとは呼んでいなかったと思いますが・・・)の虜となってしまった私は、高校生の身でありながらシリーズ観戦皆勤賞を当時継続中でした。今回も友人“ハマ”と小田急ロマンスカーで御殿場まで行き、タクシーでスピードウェイへ直行したのでした。 
今年よりチャンピオンシップポイントが2リッターマシンのみに懸けられたため、よりコンティティブなレースが期待できると思われます。当日ゲートで配られた予選結果表を見ると、いかに出場ドライバーの顔触れが面白いかが分かると思います。 この中で生沢徹のみ当初エントリーしていたGRD S72の生産が間に合わず昨年高原が乗っていたローラT212で出場することになりました。一方高原もローラT280が間に合わず酒井レーシングよりマクラーレンをレンタルして総合優勝狙いで出場します。 
予選で注目されたのは、大排気量マシンの使い手、酒井正が乗るミノルタ・マクラーレンの速さでありました。酒井は、1969年日本グランプリで日産ワークスチームの北野元がニッサンR382(6リッターV12エンジン)でたたき出したベストラップ“1分44秒77”に0秒09と迫る“1分44秒86”を記録したのでした。 
この好調マクラーレンを見ていると、もし3年前の日本グランプリに出場していたら……、なんて思ってしまうのは私だけでありましょうか。 
 決勝当日はまたも雨、それも暴風雨です。今でも私は雨で形がグチャグチャになっている公式プログラムを見るたびにその日のことを思い出すほどひどい天候だったのです。 
案の定、7リッターマクラーレンは雨の中でも快走しましたが、それに比べて期待された2リッターマシンは全車スロー走行でしか走れずのなんとフェアレディ240ZG柳田春人にクラス優勝をさらわれてしまうのでした。 
最終結果は、酒井、高原のマクラーレンが総合1〜2位を独占、そしてグランチャンクラスは、柳田と若き星野一義がフェアレディ240ZGで1〜2位を占めた。また、注目の生沢徹はクラス7位、鮒子田寛のシェブロンB21Pは8位でした。 当日スピードウェイでレース観戦しているファンとしては、何とも退屈なレースでありましたが、雨と風でほとんどコースを走っているマシンが見えないのですから、観客もドライバーも大変でだったことが容易に想像できます。こんな中唯一の救いだったのが高橋国光のスカイラインGTーRとマツダ・ロータリー勢の対決となったスーパーツーリングカーレースが想像以上に面白かったことであります。(次のレースでスカイラインは通算50勝を達成) 
これらのレースには、北野元や長谷見昌弘、黒沢元治、片山義美などのワークスドライバーが総出場しているのだから面白くないわけがありません。それ以降ツーリングカーレースはグランチャン本レースをたびたび凌ぐ人気レースに成長していくことになるのです。 
 さて、次のレースは6月4日の富士300マイルレースです。2リッターマシンの反撃なるのでしょうか? 
 

“1972年6月4日 富士グランチャンピオンシリーズ” 

第2戦 富士300マイルレース 


 再び雨……!! どうもグランチャンは晴天の神に見放されているようです。 
私といえばオートスポーツ(当時唯一のモータースポーツバイブル書だった)のグランチャン招待券がまたも当選したため友人と共にスピードウェイへと向かいました。 
実は今回は予選も行ってしまったのでした。とにかく生沢のGRDー72を見たいためだけに行ってしまったのが理由であり、ほかはどうでもよかったのです。 
そして、晴天の富士スピードウェイで初めて見たGRDの印象ははっきり言ってがっかりしたというのが正直な気持ちでした。それはボディがスロットカーのクリヤーボディのようにシャープさに欠けているように思えたのです。ただ、イエローのボディにブラックのリアーサイドフィンの配色は素晴らしかったです。 
気になる生沢の予選タイムはというとセッティングがぜんぜん決まらず“1分57秒60”で13位でした。ボディ/シャーシがショートホイールベース、ワイドトレット仕様のためダウンフォースが大きすぎて富士スピードウェイのようなハイスピードコースには向いていないように見えました。 
予選で異変が起きました。 “1分44秒63”!!なんと1969年に日産ワークスの北野元が日本グランプリ予選で、あのニッサンR382によってたたき出したコース・レコード“1分44秒77”を酒井正が3年ぶりに破ったのです。それほど今のマクラーレンは絶好調なのでした。 また、アメリカよりカンナム・ドライバーのグレッグ・ヤングがフェラーリ512Mで出場することも大きな話題の一つでした。しかし、予選は“1分49秒28”で5位と振るわず。余談ですが、フェラーリ512といえば、1970年富士インター200マイルレースにおいて、ジャンカルロ・モレッティが初めて日本にフェラーリ512Sを登場させ、あの風戸裕とデットヒートを繰り広げたことが思い出させるのです。(ちなみに1998年、モレッティはフェラーリ333SPをドライブし、1967年の330P4以来のデイトナ24時間レースでの勝利をフェラーリにもたらしたのです) 
その他注目されるのはマツダ・ワークスのドン片山義美がプライベートのヤマモト・ロータリーセブンで出場することでした。片山は不力な国産プライベートマシンをテクニックでカバーし予選9位、また、第1戦は酒井レーシングよりマクラーレンをレンタルして出場した高原敬武は、ローラT280DFVがやっと間に合い予選でも“1分46秒51をマークし酒井に次ぎ予選2番手を確保したのでした。ただし、ストレートなどを見ていると酒井のマクラーレンを凌いでおりセッティングが決まれば優勝も夢ではないと思われました。予選3〜4位は、田中弘と鮒子田寛のシェブロン勢で共に48秒台と好調でした。 
さあ、いよいよ明日は決勝ですが、今回は2ヒート制で行われ、それぞれ40周ですが、同点の場合は最終レース成績が優先される規定です。 私は、予選終了と共に一度自宅に友人Aと共に帰り、翌日再度観戦に来るという考えられないスケジュールで当時動いていたのです。 翌日、私とAは、再び富士スピードウェイにいました。  
 富士300マイルレースの第1ヒートがまもなくスタート!! 
ローリングスタートで各車最終コーナーを立ち上がりホームストレッチに向かう。 
ペースカーがピットへ下がり酒井と高原がスピードを上げていきました。そして フラックが大きく振られて“スタート”がきられました!! 
ちなみに、高原のローラは、当時マニファクチャラーズ選手権に出ていた現役のマシン、かたや酒井のマクラーレンはというと、69年の「CAN-AMシリーズ」に登場したマシン、いくら7リッターエンジンといっても現役3リッター“F-1”エンジンにはかないません。結果的には、第1ヒートを制したのは高原でした。 
レース自体は、大雨で観戦どころではなかったというのが本音でした。2リッターマシンたちは、まったく不調で柳田や星野の“フェアレディ”勢にも敗れてしまいました。 
第2ヒートは、この大雨が続く中、スタートします。私は、友人と共に“S字カーブ”から“ヘアピンカーブ”へと移動していました。 そして、私たちは、意外な結末を体験するのでした。 
(つづく)
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