’71FUJI GRAND CHAMPION SERIES No.5
富士マスターズ250キロレース
1971年10月10日

 
 
 このレースは、私と友人“ハマ“にとっては、まさしく最高のレースになるはずでありました。上の写真は、雨の中、富士のヘアピンに場所を移しての“ペンタックスSP”によるポルシェ917Kのショットであります。しかし、このポルシェはトップに立つことは1度もありませんでした。さらに、最終的には、風戸のポルシェ908−2にも抜かれなんと2位で終わってしまったなんとも悲しい生沢徹の、雨の走行写真であります。このレースの模様は、不死鳥伝説「生沢徹」の「独り言」で述べていますので興味のある方は見てください。
 今回生沢が持って来た「ポルシェ917K」は、1969年の日本グランプリで、ジョー・シファートと組んで出場したデッビッド・パイパーの所有車であり、エントリーの段階では、リザーブ・ドライバーにパイパーの名前が載っていました。しかし、パイパーは、あの偉大なるレース映画である「栄光のル・マン」の撮影中に大事故を起こし、左足切断という最悪の結果の後であることを考えると、このレースでは、監督業として来ていたのではと考えられます。さらに、この917は、ボディこそ最新型でありますが、シャーシーはあの69年日本グランプリに出場した917と同じだというのであります。まさに、雪辱戦でありました。
 また、このレースで、忘れてならないのが“生沢対酒井”因縁の対決であります。実は2人は、1967年の日本グランプリにおいて、当時国内無敵のポルシェ・カレラ6で共に闘い、生沢が優勝しているのであります。さらに、酒井は、生沢とのデッド・ヒートの際に、あの魔の30度バンクで大クラッシュを演じ、奇跡的に無傷でありましたが、今回こそはと賭ける酒井の執念は想像するにさっするところでありました。



 
 
 実は、この「富士マスターズ250キロレース」の1ヶ月ほど前の9月5日に、第4戦として「富士インター200マイルレース」が行われておりました。私は、このレースには行っておりませんでしたので、簡単にレース結果だけを報告したいと思います(プログラムから引用させていただきました)。

’71FUJI GRAND CHAMPION SERIES No.4
「富士インター200マイルレース」9月5日
予選結果(上位10位まで)
 
順位 ドライバー マシン タイム
1位 酒井正 マクラーレンM12 1’45”86
2位 田中弘 シェブロンB19 1’49”84
3位 風戸裕 ポルシェ908 1’50”03
4位 T.アダモウイッチ マクラーレンM12 1’52”49
5位 高原敬武 ローラT212 1’54”23
6位 浅岡重輝 ベレットR6S 1’59”15
7位 渡辺一 ポルシェ906 2’02”97
8位 鯉沼三郎 フェアレディZ 2’03”76
9位 柳田春人 フェアレディZ 2’04”97
10位 清水弘 ダッカス・SPL 2’05”29
 

 “米国の大男トニー・アダモウィッチを迎えての第4戦(9月5日)風戸はカンナム第6戦(ロードアメリカ)−5位という金看板をひっさげ、なにがなんでも…の構え、通算ポイント争いも激しくなって来た。首位高原が予選で負傷したのは大きな誤算。
 アダモウィッチは借り物のマクラーレンM12、しかも初コースで52秒台と、本場のテクニックの一端を披露してくれたが、決勝ではバーストで余儀ないリタイヤを迫られた。酒井、田中弘、風戸、浅岡と、めまぐるしく入れ替わる首位争いに、波に乗った酒井が最後のとどめを刺し、第3戦に続く連続イタダキ。GCレース通算ポイントで初めて首位に立った。第5戦は高原のポイント巻き返しが焦点。”

レース結果
順位 ドライバー マシン 周回 時間
優勝 酒井正 マクラーレンM12 53 1”55’54”60
2位 鯉沼三郎 フェアレディZ 53 1”57’33”90
3位 柳田春人 フェアレディZ 53 1”57’41”11
4位 清水弘 ダッカスSPL 51 1”56’09”53
5位 浅岡重輝 ベレットR6S 51 1”56’32”93
6位 渡辺俊之 フェアレディZ 51 1”56’25”06
7位 沢田稔 フェアレディZ 50 1”57’05”66
8位 長谷川弘信 フェアレディZ 49 1”56’55”66
9位 岡本金幸 オカモトG7 49 1”57’24”52
10位 篠原孝道 フェアレディZ 48 1”56’10”23
11位 高原敬武 ローラT212 31 1”56’22”81
 

 “決戦!富士マスターズ250キロレース”(10月10日12:00PMスタート)
 1969年日本グランプリにおいて、契約条件が合わず不出場となった我が“生沢徹”は、ついに念願のポルシェ917をレンタルすることに成功し、我々の前にその姿を現したのでした。1971年当時としては、最新CAN−AMマシンを除けば、まさに最速のマシンでありました。また、当時のライバルであったフェラーリ512Sを持ってしても、1970年「セブリング12時間レース」でやっと1勝するのがやっとの状態であり、まさに生沢は、1964年の「第二回日本グランプリ」での式場壮吉状態でありました(式場のポルシェ904がエントリーしたため、国内最強のスカイラインGT−Bは勝負にならず敗れ去った。皮肉にも当時生沢は敗れ去ったスカイラインをドライブしていた)。
 迎え撃つ酒井正のマクラーレンは、現在絶好調であり、今まさに北野元の持つ富士スピードウェイラップ記録を破らんばかりでありました。あとは、富士独特の天候次第で勝負が決まるといっても過言ではないでしょう。
そして注目の予選結果は下記の通りでした。どうしたTETSU!!

 予選結果(上位6位まで)
順位 ドライバー マシン タイム
1位 酒井正 マクラーレンM12 1'46"22
2位 T.アダモウイッチ マクラーレンM12 1'48"08
3位 生沢徹 ポルシェ917K 1'48"81
4位 風戸裕 ポルシェ908−2 1'49"76
5位 田中弘 シェブロンB19 1'50"06
6位 高原敬武 ローラT212 1'52"47
 


左は、酒井とアダモウィッチのトップ争い。右は優勝した風戸のポルシェ908.

 
 注目の生沢は、セッティッング等が間に合っていないのか、かなりてこずりなかなか1分48秒台に乗せることが出来ず予選は3位に甘んじることになりました。T.アダモウイッチは2回目の富士でこんどはしっかりと予選2位を確保し、酒井との争いが予想されます。
 とにかく雨が多い富士グランチャンですが、この決勝当日も例にもれず雨模様でありました。私と友人“ハマ”は、ストレートでスタート後数周の間カメラのシャッターを押しつづけましたが、10周近くから“ヘアピン・カーブ”付近に移動することにしたのでした。ストレート下のトンネルを通ってやっとヘアピンについた頃には、すでに10周近くもレースが進んでおり、誠に予定外でありました。
あれだけトップを快走していた酒井はリタイヤし、変わってT.アダモウィッチがトップに立つもののあれる天候に徐々に遅れだし、ついに生沢がトップ…と思いきや、なんと生沢は風戸に抜かれて現在は2位だったのでありました。41周のレースは、その後荒れることはなく、風戸裕のグランチャン初勝利で幕を閉じました。
 なお、1971年度総合チャンピオンには、2勝を上げた酒井正が初代王者となりました。

レース結果(上位6位まで)
 
順位 ドライバー マシン 周回 時間
優勝 風戸裕 ポルシェ908 41 1”25’43”87
2位 生沢徹 ポルシェ917K 41 1”27’31”61
3位 田中弘 シェブロンB19 40 1”26’47”82
4位 T.アダモウィッチ マクラーレンM12 40 1”27’15”29
5位 柳田春人 フェアレディZ 40 1”27’45”49
6位 浅岡重輝 ベレットR6S 39 1”26’13”11
 

 グランチャンレースが終わると今度は、スカイライン対カペラの激突で沸くツーリングチャンピオンレースがスタートします。高橋国光、黒沢元治のスカイラインGT−Rと片山義美率いるマツダ・カペラ・ロータリーの対決は、グランチャンがかすむぐらいの人気をはくしていました。
 雨の中の決勝は、スカイラインの貫禄勝ちで幕を閉じましたが、今後の展開はグランチャン以上に注目されることうけあいでした。
さて、私と友人“ハマ”はツーリングカーレースはほどほどに家路に急いだのでした。なぜならば、
上の広告の通り夜の9時から今日のレースの模様が放送されるからです。このパターンは、2人で見に行っている間続いたのですから、かなりハードな帰宅でした。まず、スピードウェイからの臨時バスに乗り、小田急御殿場駅まで戻り、あらかじめ買っておいた“ロマンスカー”の指定券で新宿へ戻り、そして、当時の自宅であった板橋に戻るのでありました。ちょっとでも事故があると間に合わない状態となってしまうため、当時は、かなり必死になって臨時バスに並んだものでありました。
 さて、いよいよ1972年からは、2リッターマシンにグランチャンピオンがかけられた新たなレースシリーズとなります。マクラーレンやポルシェも対象外ですが、出場はOKですので、一体どのようなレースとなるか本当に楽しみな来年でありました。
このつづきは、1972年富士グランチャンピオンシリーズをご覧ください。
 
 (GO TO TOP) (GO TO MENU) (GO TO WEB MASTER)