東京レーシングカー・ショー (1968〜74年) 東京晴海の国際貿易センターといえば、当時「東京モーター・ショー」の会場としてあまりにも有名でした。そして、もう1つここを舞台としたイベントが1968から開催されていたことを覚えているでしょうか。 それは、「東京レーシングカー・ショー」でした。当時中学生だった私と友人の浜口君は、このイベントを本当に“お祭り”だと考えていました。なぜかというと、前年活躍した“本物のレーシングカー”をじかに見れるのですから、私たちにとってはまさに“くるまのお祭り”だったのでした。私たちは、それぞれ自慢の“一眼レフカメラ”を持ち合ってそれらを思う存分撮りまくり、後日2人で写真を見せ合い批評しあったものでした。そこで、このページでは、それらのオリジナルネガをおり混ぜながら当時の「東京レーシングカー・ショー」を振り返ってみたいと思います。 (1)第1回東京レーシングカー・ショー 1968年3月
東京レーシングカー・ショー事務所が発足したのは、もう、42年の年の瀬も迫った12月であった。第1回ショーのオープンは3月上旬ということに決まっているので、大車輪で開催準備を進めなければならない。事務局員、わずか3人の七めん八びの活躍が始まった。 最初にぶつかった障害は、日本自動車工業会のメンバーである国産自動車メーカー各社の協力をあおぐことである。当時、日本のレースで活躍しているマシンといえば、ほとんどがファクトリーのツーリングカー、ところが、自動車工業会では、東京モーターショー以外の自動車ショーには、原則として出品しないという暗黙の申し合わせがあることが分かった。 しかし、この自動車工業会の申し合わせどおり、各メーカーの協力がなければ、当時、日本で展示するに足りるマシンといえば、わずか20〜25台ぐらいしかない。これでは、ショー自体の体制すら成り立たない。そこで、当たって砕けろ・・・・・・ではないが、各メーカーへの協力要請アタックが始まった。 「案ずるよりも生むが易し」とはよくいったもので、われわれが調査した自工会の申し合わせ事項とは裏腹に、各メーカーとも東京レーシングカー・ショーの主旨を説明すると、一様に協力するとの確答を得て、第一関門は突破した。 つぎはプライベート・マシンである。JAF公認の各クラブを片っ端から電話して、マシン出品の要請をしたのであるが、あるマシンは、メーカーやディーラーの保管のもので、出品者の申し込み責任問題が明確でないため、あたら各マシンの出品が実現しなかったり、出品要請マシンであっても、プライベート・オーナーが高いお金をかけて完成したレーシング・マシンであるために、わざわざ衆人の前にマシンを展示する必要はない。と断られるなど、プライベート・チームの出品は難行を重ねたのであった。 そこで、われわれは、マシン出品要請をつぎのように明確にして、今後の東京レーシングカー・ショーを育成しようと決意した。
ところが、いざ東京レーシングカー・ショーを開催してみると、それにかかる必要経費がバカにならない。晴海の国際貿易センターは、一番面積の少ない南館(モーターショーの2輪本館)ですら、1日20万円(1968年当時)、2日間の開催予定だから、搬入日を入れると3日間で60万円、これにディスプレイを見積もらせてみると最低120万円とのこと・・・・・・。 一番金づるのメーカーには、自工会の申し合わせ事項もあるので、出品料や広告では一銭も迷惑をかけないとの約束であるから、収入はゼロ。 プライベート出品者でも、商業的にショーを利用する人以外はインビテーションであるから、収入はわずかしか望めない。こうしたショー開催の構想を、会場予定地の晴海にある貿易センターの係員に相談してみると、答えは「絶対に成り立たない」とのことであった。 なるほど、当時、晴海で開催されているショーなど、各産業界の団体が開催するものばかりで、少なくても展示館の借用料は展示者からのエキビジョン・フィーで確保し、その他の経費を入場料でまかなうというものばかりである。 展示館の借用料はもちろん、一切の経費を入場料だけでまかなうという東京レーシングカー・ショーの見込みは“甘い”というわけである。 だが、乗りかかった舟である。リスクは石原慎太郎氏関係との折半としても、日本のオートスポーツ振興のためには、東京レーシングカー・ショー開催の必要性を信じ切った事務局関係者3名は、すべてのショー関係者が、採算の見込みはないといわれたレーシングカー・ショーの開催にまい進していたのである。 搬入が終わったオープン前夜12時、東京・晴海の国際貿易センター南館に並んだマシン群を見て、われわれは「よくぞ、やった」と叫んだものであった。 今から思うと、ショー専門家がいうように、入場券を払ってまで見にくるようなショーではない、といわれた東京レーシングカー・ショーではあるが、集まったマシンはファンを引きつけて離さないものがあったのであろう。その第1は、68日本グランプリの焦点T(トヨタ)、N(日産)、T(滝レーシング)の激突を、この第1回東京レーシングカー・ショーは事前にファンの前に展示したことである。当時、スーパーの経営者であった滝進太郎氏は、スーパーの経営を断念してまでレース界で生きようと「滝レーシング・オーガニゼーション」を発足させていた。第3回日本グランプリを制覇しようと開発されたニッサンのR−381に対して、滝さんは巨額の資金を投入してポルシェ910を緊急輸入、東京レーシングカー・ショーに展示してくれたのである。 しかも、人気ドライバー生沢徹選手が、滝レーシングの契約ドライバーとして、このショーで発表されるとあって人気は沸騰した。第1回ショーの最終日、日曜であったと思う。滝さんと生沢徹選手のサイン会を中庭で行うと発表したところ、ファンが殺到、滝さんと生沢選手がほうほうの熊で事務所に逃げてきて「池に押し落されるところだった」と、ファンのホットぶりに驚いていたものであった。 予想外の人気に沸いた第1回ショーは、われわれが、ショー専門家の忠告にも迷わず信じたように“ファンの前にマシンを、ドライバーを”というファンの熱望をかなえたのであろう。トータル収支は約100万円の利益を生んでくれた。 リスク覚悟で開催した東京レーシングカー・ショーであるから、この利益はオートスポーツの発展のために還元しようと、5月に開催される第5回日本グランプリに、ファンを100名を招待、残りの利益は、第2回ショーの準備金として使用させてもらうことにした。 第2回ショー開催を発表して驚いたことは、この第1回ショーが、日本のモータースポーツ・ファンに与えた影響の大きさであった。” 以上が、当時困難を極めたショー開催までの記録でありますが、あらためて本当に大変であったことが分かりました。私は、この第1回ショーを、見ていないのですが、今思うと、とても行けなかったことが残念で悔いが残っています。(中学2年だったということもあって、外出が難しかったのも事実でありました。) このつづきは、こちらへ。「第2回東京レーシングカー・ショー」
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