“「ファッション」村の少年たち”
PART 2 
 “悪魔のようなあいつ”を真似して、“傷だらけの天使”となり、“地球に落ちてきた男”となる?!
 1970年代前半のファッション・カルチャーは、なんといっても“グラム・ロック”の登場ではないでしょうか?
60年代の“フラワー・ムーブメント”の余韻を残しながら、新しい時代のリーダーとして彼らは登場しました。私は、その時代高校生でありましたが、その音楽、及びファッションの影響力は大変なものであったことを今でも強く感じています。
 特に、その影響を強く感じたのは、私が大学時代の頃であったといえます。それも、その音楽ではなく“ファッション”で影響を受けたのでありました。当時は、フォーク・ブームも日本中に沸き起こり“吉田拓郎”や“井上陽水”などの影響もあり、若者たちは、長髪に“スーパー・ベルボトム”のジーンズ、そして、“ピタTシャツ”を身に着け、さらに、10〜20cmもあるヒールの“ロンドン・ブーツ(左下写真参照、ユニオンジャックが最高でした!)”を青山「ホソノ」で調達して得意げに原宿辺りを歩いておりました。まだ、“ノンノ”、“アンアン”の創刊前ということで、原宿辺りはあまり人気がなく、“デビィット・ボウィ(右写真)”もどきの若者たちが、たむろしておりました。そして、“クールズ”等のアメリカン・グラフェティ族達と共に、一種異様な雰囲気をかもし出していたのでありました。
 私も、1974年頃、突如無族派から、“グラム・ロック”派に1夜にして変貌してしまいました。
これは、何を隠そう小学校時代の同級生であったT君(N大芸術学部映画科に在学)の影響力でありました。彼は、音楽に関しては進んでおり、当時すでにあの“ロキシー・ミュージック(右下写真)”を崇拝しておりました。
そういえば、大学1年生の頃、久しぶりに私に会ったT君は、流行りの長髪ではなく七三に分けていた私のヘアー・スタイルを見て、「ボン(小学校時代の仇名であります!)! すごいな!ロキシーかい?!」と言っていたのを今でも良く覚えております。私は、ただの青年カット(?)だっただけなのですが…(笑)。

 右上の写真は、1972年当時のもっともGREATな時の“ロキシー・ミュージック”です。
特に、全面左の“ブライアン・イーノ”と“後ろ中央の“ブライアン・フェリー”は、ディビッド・ボウィとならんで、私たちに、大きな影響を与えた人たちといっても過言じゃないと思います。
 
 私は、当時から人に影響されやすい性格で、なんでも取りあえずやってしまうことが私の欠点でもあったわけですが、そんな性格を目覚めさせた事件(?)が幼年期にあったのです。
それが、1963年から父親の仕事の関係でやらさせてもらうことになった“モデル”の仕事でした。当時月刊漫画雑誌の絶頂期であり、講談社の「ぼくら」もそんな時代の代表的な雑誌でありました。私は、足掛け2年間、この「ぼくら」の表紙を勤めさせていただくことになったのでありました。
この仕事をして行くうちに芸能界へ…、などと進んでいくことも多いようですが、私の場合には、残念ながら(?)そのようなことにはなりませんでした(当時の模様は、我が尊敬するホームページである「60年代通信」において、企画として取り上げて頂きましたので、ご興味のある方はご覧になってください)。
 ところで、右のデビィット・ボウィも私に対抗して(?)の拳銃マニアなんでしょうか?!
 
 1965〜66年といえば、日本中が“ヴェンチャーズ(いや、ビートルズだと言う人もいるとは思いますが…)”と“モデルカー・レーシング(私の小学校ではということですが…)”に熱中し、大人も子供も明け暮れたといってもいいのではないかと思います。
 私も例にもれず1967年中学1年生の時に、小学校6年の同級生とともに、エレキ・グループ「ジ・エコーズ」を組んでしまったのでした。その頃は、ビートルズより、絶対ヴェンチャーズが日本において人気が上であったと思うのですが、私達のナンバーも、すべてインストロメンタル・ナンバーでありました。ヴェンチャーズ・ナンバーはもちろん、バニーズの「レッツゴー運命」などを中学1年生ながら寺内タケシ顔負けのテクを持っていたY君は、今考えても凄かったなと思います。ちなみに私の担当は、ベースとリズムギターでした(写真右前が私です…笑)。
 その後私は、無難に(学校の成績は、美術と音楽、なぜか数学以外は、ずべて最低でしが・・・ワハハ!)中学、高校と進み“モーター・スポーツ”や“モデルカー”などに影響されつつもジワジワと1970〜73年当時のミュージック、とりわけ“グラム・ロック”と“フォークソング”の波に影響さていったのでありました。
 最初に影響を受けたのは、1968年に発売された“クリーム”の代表曲“WHITE ROOM”のシングル盤ジャケットの写真でした。エリック・クラプトンの履いていた“蛇皮・ブーツ(ロンドン・ブーツではない)”の履きこなしとその雰囲気は最高でした!
 それでは、当時若者が好んで行なっていた代表的なメイク(?)とファッションを紹介しましょう。
上の写真の青年(?)たちは、いったい何者なのでしょうか? しかし、確かに1973年当時には、原宿を主としたグラム・ロック・マニア(?!)派の若者がこのようなメイクとファッションをして歩いていたのは事実でありました。右の青年は、デビィット・ボウィの真似なのでしょうか?今で言えば、筋肉少女隊の“大槻ケンジ”あたりでしょうか(笑)!左側の“蜘蛛男”は、一見小学校時代の同級生であったT君に似ているようですが…。
 これは、“アダムス・ファミリー”の新作でしょうか?!しかし、彼らにとっては、きっと流行の先端を走っているつもりだったのでしょう。右端の彼は、ミイラ男でも演じているのでしょうか。無機質さがいやに板についているように思います。

 


 左は、あの“T.レックス”の“マーク・ボラン”であります。高校時代に聞いたT.レックスの“メタル・グルー”は、今までの音楽感を変えたと言っていいほどの衝撃だったと記憶しております。
 ところで、上の写真の青年は、ザ・テンプターズの大口さんにどことなく似ている風貌ですが…。
1974年頃は、この青年のようにジャケットからプリント・シャツの襟を出して、ベルボトム・ジーンズにブーツやスニーカーを履いていたものでした。
 ところで、1970〜76年当時は、“レッドツェッペリン”や“ディープ・パープル”などのハード・ロック・バンド人気の真っ只中でもありました。
 ここでまた、グラム・ロックとは異質の音楽文化が若者たちを夢中にさせたのであります。そして、ここにきてやっと、これらミュージシャンのファッションについてもある程度世の中が認めてきたように感じられたのも確かでありました。
 私などは、当時からとても優柔不断でありました関係上、グラム・ロック
やハード・ロック以外にも、C.C.Rやシカゴ、さらに、当時人気が出初めておりました“キャロル”にも夢中になるなど音楽に対しては、日替わり状態で趣味が変わるという日々を過ごしておりました。しかし、ツッパリ・カットはついにいたしませんでしたが…。
 1990年代は、“ビィジュアル”の世界とでもいうのでしょうか、男と女の中性化状態が注目されております。ところが、1970年代もそんな時代でありました。
「モーレツからビューティフルへ」のキャッチコピーが代表するように、時代の“グラム・ロック”化がささやかれた時代でありました。
 左上のポスターは、1969年、新しく誕生した“PARCO”のポスター第1号であります。
まだまだ、60年代の“イエ・イエ”の影響を強く受けておりますが、右上のポスター(1972年)のように、男女の関係が逆転されたような写真もこの時代ならではと思えてなりません。これこそ、中性化の時代の象徴ではないでしょうか? そういえば、1966年頃から日本中を嵐のように駆けまわった、あの“GS”ブームも男女の中性化に一役買っていたのではと思えてなりませんが、どう思われるでしょうか?!

 左上の写真は、“グラム・ロック”マニアの写真でしょうか?!ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」の影響ですね!いや〜、当時のボウイは、カッコイイです。さて、右の青年は・・・?!
 いろいろ好き勝手なことを並べて、自分でも何が言いたいのかが分からなくなってきておりますが、1970年代、特に1975年前後の時代にリアル・タイマーでいられたことが何よりの私の財産でありました。この時代は、私にとって、「悪魔のようなあいつ」の“加門良”に自分なりになれたことや、上中央の「地球に落ちてきた男」でのボウィ扮する異星人“トーマス・ジェローム・ニュートン”にも近ずくことが少しは出来たことなどが、良い思い出となっております。
 2000年を超えて、新たな若者たちが、私たちと同じような体験が出来ることを祈りながらこのページを終わりたいと思います。


 
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(C) 30/AUG/99 BY HIROFUMI MAKINO