講義の政治性についての基準       2004. 8.18./2006. 5. 2.一部修正

 

私の講義は、現在、

        高校生以下を対象とする講義については、社会的評価が分かれる事項、政治的な事項については論評抜きに事実のみを議論する。

(質問には答えるが、こちらから事実以外についての個人的見解は述べない)

        大学生以上を対象とする講義については、まず事実のみを議論し、その後必要ならば私の個人的見解を議論する。

        成績評価については、その政治的社会的立場の差異による不公平がないようにする。

という方針で行われています。

 

 

 

たとえば、原子力の危険性を指摘し核廃絶を訴える人々の主張の中には、「(原子爆弾の)被爆者の子孫は、その血が絶えるまでずっと原爆に由来する白血病などの疾患に罹る可能性が高く、その恐怖に耐えなければならない。」という意味の記述が幾つもみられます。そのために(不幸な連鎖を断ち切るべく)子供をつくらないと決めている人が多いとかいう話をみると、なんだか「そうか、被爆者の子孫は不幸になるんだから、被爆者と結婚しちゃダメなんだな」と思う人が出てくるのも理解できる話です(僕の好みとしてはそういう基準で人生を決めるのはつまらないと思うけれど、そう考える人がいるのはわかるという意味です)。その結果、差別は根強いものになってしまっています。(例えば http://www.yomiuri.co.jp/komachi/reader/200108/2001080100008.htm を参照)

しかし、これは例えば歯科分野でのフッ素使用に反対する立場の人が「フッ化水素酸は強酸である」と無説明に主張するのと同様、事実に反することです。 http://sta-atm.jst.go.jp/atomica/09020708_1.html とか、

http://www.rerf.or.jp/nihongo/faqs/faqsj.htm#faq7 などの研究結果をみても、被爆者の子孫が「未来永劫」に不幸な遺伝情報を伝える可能性は無いといってよさそうです(これは、「核兵器が安全である」という意味では勿論なく、「子孫を差別するのは統計的には無意味である」ということです)。にも関わらず、この統計的事実は「反核」という観念のためにねじ曲げられ、結果多くの人に被爆者の子孫が誤解され差別が続いているわけです(これに対し喫煙は明らかに健康を害することですが、喫煙者が被爆二世より差別されたという話はきいたことがありません)。

反核の理念が悪いわけではありません。核戦争の不幸がおこらないようにすることは、次代への責務だと思います。しかし、その理念がどんなに崇高であっても、事実をねじ曲げていいわけではないし、まして理念のために差別が続くなどというのは本末転倒なとんでもないことだと思います。

 

一方で原子力を推進する側が「絶対に安全だ」と断定するのも、同様におかしな話です。危険性はどこにあるのか、危惧される不安にはどんな対策をとればよいのか、原子力を用いない場合とくらべてどんなメリットがあるのか。そういうデータ(事実)をきちんと揃えて、その理解の上で結論を出す必要があるはずです。

 

私の講義でも、とりわけ大学の講義での核化学や環境化学の分野では政治的要素がからむことになります。私自身の意見がないではありません。しかし、以上述べたように、いかなる理念よりも「事実」が優先されるべきだと思います。自然科学は事実を扱い、「なぜなのか」を考えていく学問です。その事実をどう解釈するかは個々の自由な判断によるべきだと思います。先入観を与えてはならないはずです。従って、私の講義では誰にでも普遍的に共有される「事実」について論じ、個人的な見解は可能な限り交えないで進行することにしています。

 

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