僕がいちばん好きな歌は、「神の御子は今宵しも(Adeste Fideles / O Come, All Ye Faithful=賛美歌111)です。僕はあまり敬虔な信仰者ではありませんが、このクリスマス・ソングの中で「賎の女をば 母として 生まれましし みどりごは」と歌うのを聴くと、「そうか、この信仰の神様は“賎”の中から出たんだな。神が人間の低いところから現れることで、人間のあさましい序列を無意味だと表明したわけだ」と思って、ちょっと(涙が出るくらいは)嬉しかったのです。だから僕は街にこの歌が流れるクリスマスが楽しみでした。

 

 しかし。日本基督教団が198812月付けで「賛美歌の以下の語は“不快”語なので、読み替えてください」といっている中に

1112節 「賎の女をば母として」は「おとめマリア母として」に訂正』

というのが入っていて、最近の歌集では、とうとう根本から書き換えられてしまい、「賎の女をば母として」は賛美歌集から抹消されてしまったのです。

 

この教会によれば、「賎の女」は不快語なのだそうです。確かに、誰かを出自などで云われなく差別することは恥ずべきことでしょう。しかし、だからこそ「神の御子」が「賎の女」から生まれたことが、人間のつくったこの世の差別なんてものは無意味だという強烈なアピールとして重要なのではないでしょうか。実際、当時キリストは父の定かでない私生児として差別されているようですし、最初にその生誕を祝福したのは、東方の三博士ではなく、定住民からは差別されていた羊飼いでした。僕は貧しくても金持ちに恥じることは何もないと思っているし、別段「いい家」の出ではなくとも王族貴族出身の方に劣後することは何もないと思っています。勿論僕より貧しい人・「いい家」の出では無い人に対しても何ら優越感を持つものでもありません。僕にとって他人の価値は何を考え、何をする人なのか、それだけで決まります。この歌は、そう考えている僕を応援し、誰にも恥じない自分でいることを助けてくれた歌なのです。その僕の大好きな部分が、「不快」なのだそうで抹消されてしまったのです。

 

他の「修正」箇所でも、「賎」「はしため」「愚か」「高きも低きも」「まずしく低き」「水夫」「いやしく」という文言は不快語として削除されてしまいました。こういう言葉がなければ人間にはみんななんの差もなくなるのでしょうか。「祖国」のところでは、「やまとのくに」が不快語なのだそうです。いったい誰におもねているのでしょう。

彼らは言葉を狩ることで、人間の心が悪い意識もなくすと信じているのでしょう。彼ら正しき人々は、人が絶対(信仰者はそれを神と云う)に比べて低いところにあることも忘れて、彼らの美しい理想を理解できない僕ら未分化な人間を「教育」してくれているんでしょう。でも、人が絶対になってしまうのなら、いったいなんのための信仰なんでしょうね。