Kenta's ... Nothing But Pop
Pickin' Up The Pieces (Lost Liner Notes)



The unreleased liner notes of
Pickin' Up The Pieces
Poco
(Epic/Legacy)


 なんとも愛らしい響きのグループ名や、カントリーを基調にした底抜けに明るい音楽性などとは裏腹に、ポコというバンドには常に奇妙な悲運さがつきまとっていた。ご存じの方も多いと思うが、ポコ結成時の中心メンバーだったリッチー・フューレイとジム・メッシーナは、もともとバッファロー・スプリングフィールドというバンドの一員。このバンドにはスティーヴン・スティルスとニール・ヤングが在籍していたせいもあり、活動初期はいつもスティルスとヤングを含むCSN&Y、つまり“クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング”と比べて語られることが多かったものだ。そして、大方の場合、CSN&Yのほうに分があった。ポコなんてダサい、かっこいいのはCSN&Yだよ……と。

 実際のところ、CSN&Yはバンドというより、むしろセッション・ユニット的な性格が強い存在だった。メンバーひとりひとりがそれぞれの個性を発揮したソロ・アーティストの集合体とでもいうべきか。メンバー間にただようぴりぴりとした緊張感もおよそ従来の“ポップ・バンド”というイメージとはかけ離れて見えたものだ。対してポコはきっちり、従来の“バンド”としての美学をまっとうしながらスタートをきった。元バッファロー・スプリングフィールドのメンバーだった二人が結成した注目の新人グループとして、前途は洋々だったはずだ。当時の日本の音楽雑誌などでも、まさに期待のホープとして紹介されていた。本デビュー・アルバムがはじめて日本でリリースされたときの邦題は『カントリー・ロックの貴公子、ポコ誕生!』という、なんとも勇ましいものだった。

 が、時代は60年代末。ご存じ1969年のウッドストック・フェスティヴァルをピークに燃え上がった、ロックをとりまく熱狂的な共同幻想(ラヴ&ピース!)が、やがて急激に収束し、諦めが時代を支配し始めた。ロックを拠り所に革命を起こせるかもしれない、と熱く燃え上がった60年代ははるか記憶の彼方へ。幻想は幻想でしかなかった。そんな事実に誰もが気づき、時代は鎮静していった。とともにアメリカでは、熱い連帯への思いをたぎらせたロック系の音楽が生気を失い、代わって、ひたすら内省的な手触りをもつシンガー・ソングライターたちの音楽が静かなブームを呼びはじめた。ジェームス・テイラー、キャロル・キング、ジョニ・ミッチェルなどなど。こうした時代の気分の中では、もはや従来の“気の合う仲間”的なポップ・バンドは本来の存在感を発揮しにくかったのかもしれない。60年代の熱狂から一気に奈落へと突き落とされたウッドストック・ジェネレーションを象徴する、新しい形の集合体を象徴してみせたのはやはりCSN&Yであり、ポコではなかった。“素材”としては爆発的に売れてもおかしくない魅力を持ちながら、ポコが結局は堅実なセールスをあげはするもののけっして超ビッグな存在にはなりえなかったのは、そんな時代性にも大きな原因がある。悲運だと思う。

 が、ポコはいい。最高だ。発表当時の時代性の呪縛から解き放たれたこの90年代に聞けば、きっとそんな事実がより客観的に味わえるはずだ。メンバー的に言っても最良の形でレコーディングされた本ファースト・アルバムがCD化されたことは、だからとてもうれしい。心底、感動だ。エピック・レコード在籍時のポコの場合、セールス的にも71年のライヴ・アルバム『ライブ・ポコ(Deliverin')』が最高傑作とされていたりするが、個人的には本ファースト・アルバム『ピッキン・アップ・ザ・ピーシズ』こそがもっともポコらしい輝きに満ちた一枚だと思っている。

 さて、そんなポコの成り立ちについて、駆け足で振り返ってみることにしよう。きっかけは前述した通り、バッファロー・スプリングフィールドというバンドのメンバーとしてリッチー・フューレイとジム・メッシーナが出会ったことだ。フューレイは1944年5月、オハイオ州イエロー・スプリングス生まれ。大学時代にフォーク・トリオを結成し、やがてニューヨークへ。グリニッチ・ヴィレッジのフォーク・クラブで活動を続ける中、スティーヴン・スティルスと出会った。そして、のちにロサンゼルスへ向かい、スティルスの誘いで1966年、バッファロー・スプリングフィールドのオリジナル・メンバーの一人となった。一方のメッシーナは、1947年12月、テキサス州ハーリンゲン生まれ。やがてカリフォルニアに移住し、ハイスクール時代にザ・ジェスターズというサーフ・インストゥルメンタル・バンドのリード・ギタリストとしてレコードをリリースしたりしていた。17歳になったころにロサンゼルスのマイナー・レーベル“アイビス”のA&Rマン/ミキシング・エンジニア/スタジオ・ミュージシャンとして活動を開始。1968年にバッファロー・スプリングフィールドに途中加入した。バッファローのラスト・アルバムとなった三枚目の『ラスト・タイム・アラウンド』ではベーシスト/ギタリストとして活躍するとともに、ミキシング・エンジニア、プロデューサーとしても重要な役割を果たした。

 が、『ラスト・タイム…』をレコーディングするころには、メンバー間の意見の食い違いなどからすでにバッファローの解散が決まっており、二人は次の動きを模索し始めていた。そして『ラスト・タイム…』の収録曲である「カインド・ウーマン」のセッションのときゲスト・プレイヤーとしてスタジオに招いたペダル・スティール奏者のラスティ・ヤングを誘って、ニュー・グループを結成することにした。ヤングは1946年2月生まれ。出身地については本盤のオリジナル・ジャケットを見るとコロラド州デンヴァーと書かれているが、カリフォルニア州ロングビーチ出身でのちにコロラドに移住したとする説もある。7歳のころからスティール・ギターをプレイし、14歳のときすでにプロのミュージシャンとして活動を開始したという。大学時代に、ボーンジー・クリーク(Boenzee Cryque)なるカントリー・ロック・バンドに参加。大学をやめてバンドでロサンゼルスに向かった。バッファローのレコーディングにセッション・ミュージシャンとして招かれたのは、このころだ。こうしてフューレイ、メッシーナ、ヤングという中心メンバーが勢ぞろい。ヤングはちょうど同じころ、やはりロサンゼルスをベースに活動していたフライング・ブリトー・ブラザーズからも誘いを受けていたらしいが、結局はポコを選択。残りのメンバーはオーディションで決めようということになった。

 まず、ドラマーとしてはラスティ・ヤングとともにボーンジー・クリークで活動していたジョージ・グランサム(1947年11月、オクラホマ州コーデル生まれ)が決定。ベーシストは何人か候補が残った。のちに結局ポコに加入することになるティモシー・B・シュミットも最終候補のひとりだったそうだが、このときはボーンジー・クリークと同じ地元コロラドでライヴァル的な存在として活動していたザ・プアーのメンバーだったランディ・マイズナー(1946年3月、ネブラスカ州スコッツブラフ出身)が勝ち残った。こうしてリッチー・フューレイ、ジム・メッシーナ、ラスティ・ヤング、ジョージ・グランサム、ランディ・マイズナーという鉄壁の5人編成が完成した。ちなみに、フューレイはこのとき、なんとのちにオールマン・ブラザーズ・バンドを結成することになるグレッグ・オールマンもキーボード・プレイヤーとしてオーディションしたのだそうだ。結局はバンドのカラーに合わないということで落選した。

 このニュー・バンド、もともとはマンガのタイトルから取った“ポゴ(Pogo)”という名前を名乗っていたが、これはマンガの作者からクレームがつき、ボツ。仕方なく“ポコ”と改名したのだとか。そして本格的な活動を開始したが、ひと月ほどでいきなりランディ・マイズナーが脱退。理由に関しては、申し訳ないが勉強不足でわからない。その後、彼はリッキー・ネルソンのバック・バンドであるザ・ストーン・キャニオン・バンドを経て、ご存じイーグルスにオリジナル・メンバーとして参加することになるのだが、歌もベースも絶妙にこなす男だけに、様々なバンドからの誘いがかかっていたのかもしれない。が、正式メンバーとしてはラインアップからはずれたマイズナーだが、脱退後もしばらくはポコに関わっていた。本デビュー・アルバムでもベースとコーラスでほぼ全面的に参加している。いきなり結論めいた話になるが、ポコの音楽性を考えると、ぼくはのちのティモシー・シュミットではなく、あくまでもランディ・マイズナーこそがベーシストとして最適任者だったと今でも信じている。指弾きのシュミットに比べてピックを使うマイズナーのベースはどこかスカッと抜けた味わいを持っている。この感じがポコにぴったりなのだ。このあたりの話に関しては、バッファロー・スプリングフィールドからポコにかけて、リッチー・フューレイを追い続けた大滝詠一師匠の受け売りっぽくなってしまうのだが。とにかく。その後のポコの歩みも視野に入れて語るとすれば、彼らの歴史の中で本デビュー・アルバムがもっとも明るい仕上がりになっている。彼らは何度もメンバー・チェンジを繰り返しながら徐々に重くパワーのあるサウンドを志向していくことになるのだが、少なくともぼくにとってのポコ・サウンドとは、あくまでも本盤で聞くことができるような、カラッと抜けたカントリー・ロック・サウンド。そういう意味では、とにかくマイズナー。彼がメンバーにいたことが本盤をより味わい深いものにしている。

 さて、話を戻そう。ポコは1968年11月にロサンゼルスでデビュー・ライヴを披露した。これを見たレコード会社各社が契約に殺到したが、実はリッチー・フューレイはバッファロー・スプリングフィールドのメンバーとしての契約がまだアトランティックに残っており、新たなレーベルと契約を結ぶことがむずかしかった。そこで名乗りをあげたのがエピック。エピックは当時、イギリスのロック・バンド、ザ・ホリーズのアメリカ配給権を持っていたのだが、その中心メンバーだったグラハム・ナッシュがたまたま“クロスビー、スティルス&ナッシュ”を結成しアトランティックと契約を結ぼうとしていたことを持ち出し、フューレイとナッシュをトレードするような形でポコとの契約を結んだ。そして1969年、めでたく本デビュー・アルバム『ピッキン・アップ・ザ・ピーシズ』がリリースされることになったわけだ。内容に関してあえて説明する必要はないだろう。聞けばわかる。楽器の腕ばかりでなく“歌える”名手ぞろいだけに、どの曲も見事な仕上がり。抜けのいいハーモニーも素晴らしいし、インスト曲でのメッシーナとヤングの美技もごきげんだ。リリース当初は10万枚程度の売り上げしか上げられず、全米アルバムズ・チャートでも最高63位までしか上昇していないが、このサウンドのポップさとかっこよさは、前述した通り、今の時代に聞いてこそフラットな気分で正当に評価できるものではないだろうか。

 その後のポコは、マイズナーの代わりとしてティモシー・シュミットが70年に加入。相前後してメッシーナがロギンス&メッシーナを結成するために脱退し、ポール・コットンが加入。しばらくはこの新編成で活動していたが、やがて73年、フューレイも脱退し、サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドへと移籍してしまった。言い出しっぺでもあるメッシーナとフューレイが脱退した時点で、ポコはもう結成当時のコンセプトを失った別のバンドになってしまったと思ったほうがいいだろう。彼らのポップなコンセプトを受け入れてくれる時代ではなかったことが今にして思えば悲しいが。ともあれ、そんなことを考え合わせても、間違いなくポコがもっともポコらしく輝いていたのが、このデビュー・アルバムだった。

1995年7月 萩原健太



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