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| ・ | 若き芸術家に捧ぐ ヨゼフ・パイオン | ・ | |||||
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片隅で頑張っている芸術をこころざしている若い人に以下を捧げます。 私は、芸術は人間の偶然への挑戦と考えています。人間自らの力で必然をなしとげる唯一の方法でもあります。(偶然と必然については後にのべますが) 芸術家に限らず、実業家、冒険家等、なにかに挑んでいる人、姿は芸術です。芸術こそ人間である証なのです。人間から芸術をとったら、動物、自然界ではまさに無用の産物でしかありません。美しさを理解できず、自分がよければいいではないかというような勝手な美学は調和のない自己満足にすぎません。芸術には新鮮な驚きが必要です。それがただ目立つだけの調和のない驚きは、美のない無知の驚きにほかなりません。とくにここでは美について述べますが、美しいというべき美を、「かわゆい」などとほざくにいたる、あまりの美術への無感性を憂えざるをえません。 このような言い方になるのは 私が特に美術に興味があるからです。今、美術は死んでいます。そのことを指摘する美術関係者がいないことに驚きます。 若き芸術家は目指すべき美を理解できているでしょうか? 今、世にでている、テレビ、雑誌やその広告などにある美術の多くは本物ではありません。出鱈目です。ところがそれが当たり前になってしまって誰も指摘しない、できない。美はまず自然への畏敬(いけい)から出発していなくてはなりません。大自然と自然の動物の美しさを越えられるか?今の人間の作り出す美はほとんどが公害です。人間の作り出す美と称する物が自然の美をも脅かしている。そのことにすら気づかない程度の想像力と美意識。 芸術をめざす若き作家に本物の芸術について述べます。 まず、あなたの作品は売れてはいけません。芸術は商品ではないからです。 それに売れる程度の作品であってはなりません。売れるということは、多くの人が認めるという事です。あなたが、やっとたどり着いた作品が、そんな多くの人達に理解出来る程度であったとしたら、あなたの才能はその程度と言う事になりはしませんか。 あなたの作品は素人の人に認められてはならないのです。その辺りの画商や美術評論家、美術館の学芸員なるものも同類です。彼らこそ美術を隠滅させた張本人たちです。彼らには作品を見抜く眼など持ち合わせていません。ただ美術史を齧(かじ)った程度の彼らが見るのは、学歴とか賞を取っているかとか、外国で認められているかとか、話題になって今,いくら位の値がついているか、とかの情報には闌(た)けていて、そういった眼に見える部分でしか作品の判断ができないのです。 美術が、眼に見えないものを表現しているのにです。ようするに自分では判断できないのです。なぜ判断できないかといえば、挑んでいる人ではないからです。
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現実というのは事実ではありますが、真理、真実とは違います。 現実、事実はあまりにも曖昧で複雑だからです。今、あなの存在は現実であり事実として眼で見て確認できる訳ですが、それが真理、真実とは限りません。 なぜかと言えば、例えば、人が笑顔を見せているからといって心まで笑顔でいるとは限らないからです。この場合、笑顔は現実であり事実として見え確認できます。しかし、見えない心は病んでいるのかもしれません。それが真理、真実です。本当の事は見えない所に潜んでいると言う事です。 見える、聞こえる、触れる、味わう、匂う、これら五感はどれも曖昧なものです。現実はこれらで構成されていて、人々はその中で当たり前に生活をし物事を判断しています。これら五感は現実、すなわち見える世界でしか物事を判断する事が出来ません。五官の機能に異常がなかったとしても、これらは歳とともに衰えていくという実に不完全極まりないものです。眼の前の現実を眼で見たまま、真実と信じて生きている人々が殆どではないでしょうか。自分の目で見た物しか信じないという人は自分の頭の後ろさえ見ることが出来ないということには深入りしない。真実、真理は感性と想像力で判断し見抜くべきものなのです。 五感は衰えていっても、感性と想像力は磨いて高める事ができます。 五感は欲望でもあります。五感は感性と想像力を駆逐します。五感は今というその瞬間にしか通用しません。想像力は今も過去も未来をも含有(がんゆう)し、なおかつ五感を制御する事が出来ます。五感がひとつでも利かなくなると、想像力が補うべく努力します。 現実の世界を眺めてみますと、自分で考える事を止めた人々が多く見受けられます。五感だけで生きる人は、明るく、軽く、楽しく、目立って、自己中心に、周りに想いを遣る想像力もなく、その瞬時の元気は、何か災難に出遇うか、病(やまい)に伏すまで続きます。そして、不遇に出遇うと安易な方法で癒しの言葉を求めます。自分で考える事を止めているため、他に考えを求めるためです。 他に求めれば自分で考えなくてすみますし責任を持たなくてすみます。そこに癒しは優しい言葉で迫ります。優しい言葉は考えなくて済むように工夫されています。人は疑う思考力もなく受け入れ、解った気になり自分のための言葉と思いこみ、救われたと思いこみます。 この表面的なきれいごとである曖昧な優しい癒し言葉に傾倒しいつの間にか自分の言葉となり、信じ、人に奨めるようにまでなり自分が能動的に生きているかのような錯覚に落ちいり他に傾ける耳を持たなくなります。自分を見失い、そのことにさえ気づく想像力は、もはやありません。 難しい言葉の混じる哲学は敬遠されがちですが、これは態(わざ)と難しい言葉を鏤(ちりば)めて人々を立ち止まらせ思惟することを奨めているだけなのです。人の思考、創造は難解、疑問の中でこそ育のです。苦のない創造と想像は表面だけのその場凌ぎにすぎません。過去とは終わっていて、もう無い世界です。かつて見えた在った世界です。 現在は今、進行形です。見える在る世界です。 未来はこれからですから見えません、まだ無い世界です。この見えない世界を想うこと明日のことを想うこと、これが想像力というものです。人間の想像力は自分と眼の前のことだけでなく、他のみえない部分を補い考える為にあるのです。 自分以外の事、物、人、動物、植物そして眼で見えないもの等に想いを巡らすことです。想いは自分の内でなく、外へ遣わしてこそ、人間として一番大切な「想い遣り」となるのです。 それなのに人が拘(こだわ)る想いは過去と現在の眼に見える目の前の事柄だけです。 未来、明日は、成ってみなくては分からないというわけです。しかし、明日にならなくても、だいたい想像くらいはつくはずです。過去から学び今の行動を想像すれば次ぎに物事がどのように展開するのか。それに対して、どのように対処してゆけばよいかなどは想像力のたどり着く範囲のはずです。 今という時は厳密に言えば、一瞬です。「いま」と叫んだとき、叫び終わったときはすでに「いま」は過去になっていて今は叫んだ時からみれば未来です。過去と未来の一瞬の狭間、ほとんど無いに等しいのが今という時です。そんな無いに等しい今や過ぎ去った過去をを大切にするより、確実に存在する明日未来を大切にするほうが得策です。ですから現在、今、行っている行為はすべて今でなく未来のためなのだということがわかります。 言い換えれば、今わたしの書いているこの文章は、あなたは決して、今みることはできません。今あなたが読んでいるのはわたしにとっては未来ですし、あなたは過去をよんでることになります。もっといえば、あなたが何か困難に出合っても、そんなことは直ぐにに過去のことになってしまうのです。逆に今、楽しく仕合わせでも、そんなこともすぐに過去のととになってしまうということです。あなたは今、苦労すべきです。今は無いのですから。 無い今で、悩んではいられません。あなたは やりたいことを 悩む暇があったら こなすべきです。
「自分はなんのために生きているのか?」と人が生きる意味を知りたがるのも、想像力があるからです。 偶然にとってみれば、皮肉にも偶然によってできてしまった人間に想像力まで偶然与えてしまったことは、不本意のはずです。偶然によって生かされた我々が、想像力を持って必然のごとく生きようとしてしまうからです。 今、自分は偶然ここに在るということを理解できていれば、毎日の偶然の連続の中で、人は思考し、工夫し計画的に人生を設計し想いを叶えようとしていることに気づきます。。これは「偶然」にとっては手強い事です。人は偶然を想像力で予測し対処を試みたりするからです。その上、生きることの意味まで探ろうとします。 しかし、生きることのに意味などは元来ありません。意味のある事柄など偶然では何一つないのです。意味とは痕跡のことです。何かを行ったときに意味ができるのです。何もしないで始めに意味を求めるのは意味のないことです。偶然に意味などがあったら偶然でなくなってしまいます。。生きることの意味などは自らが創るべきものなのです。人間が「自分が何故生きているのか?」と問う事は偶然にとっては思う壺です。必然と想って生きている証拠だからです。必然の発想は他力に頼ることに繋(つな)がり自分中心に世の中が廻ってると錯覚し、事が起きても自分以外に責任を擦り付けるという無責任さで受動的に生きてくれます。想像力なき必然の発想は不遜(ふそん)となって現れます。「意味がないならやってもしかたい。」はなにもやらない者の言い訳にすぎません。 人は一人では生きはていけません、助け合って生きねばなりません。それは偶然に生かされているという弱い立場だからです。必然であれば無理に助け合わなくても自然に任せるだけで生きていけるはずだからです。 偶然に包含(ほうがん)された想像力は謙虚な形となって現れるはずです。それは目立つことはないが、気付けば確実に存在感を持って迫ります。想像力こそ生きることの意味と、今、自分が在る希少さを気づかせてくれるものです。 しかし、想像力がない又は、想像したくない人々は、自分にとって心地よい発想に考えもなく従い、身をまかせ、虚偽にさえ疑わず気づかず、気づくほどの想像力もなく、ただ存在しているだけで、「自由に生きて何が悪い、人権だ、人に迷惑をかけなければ何をやってもよい」と一人でも生きていけると錯覚、傲慢で身勝手な発想しか持てず、この想像力の無さは他を傷つけていてもそのことにすら気づかない必然思想なのです。世に争いごとが絶えないのは自分の存在を必然とする発想が根にあるからということに、どれだけの人が気づいているでしょうか。 存在とは、過程のことです。我々が今、生きている状態は過程でしかありません。過程の連続,すなわち偶然の連続でもあります。過程である以上結果はあり得ないのです。自分で何かを成し遂げ結果を出したと想っても、そこでは決して終わらずにまだその先が続くと言うことでは、その結果も過程の一部にすぎないからです。過程上の結果に安住すると濁(にご)ります。そんな結果を期待するより過程を楽しみ、味遇うべきです。過程は出遇いの連続です。人との出遇い、物との出遇い、時との出遇い、それら今の状態は良しも悪しきも必ずや終わり、また次、先が続くからです。今という状態は、未来とその結果のための伏線にすぎないのです。出遇いは偶然のなかでも興味のある出来事です。特に人との出遇いは大切です。 しかし、大切な出遇い直面した時、その出遇いが重要かどうかを見抜くに感性が必要です。それは、常にまだ見ぬ出遇いを求めるアンテナと想像力を持って張り巡らせていなくてはなりません。せっかく、よい出遇いに立ち会えていても、そのことに気づく感性がなくては出遇いは目の前を通りすぎ、見過ごしたことにも気づかず、偶然にしてやられた瞬間でもあります。もし、後でそのことに気づくことでもあれば後悔という想像力の不在を嘆くことになります。 出遇いには困難もあります。困難も過程のの一部に過ぎません。その一部の困難を過大に考え結論を急ぐと、悩み病み自分を追いつめることになります。次の過程まで待てればいいのですが、必然の発想では焦りとなります。今は無いのだという偶然の発想に気づけば、時は緩やかに過程としてみえて来るはずです。必然でなく偶然であるとすり替えて考えることができれば物事の過小さに、見えなかった物事が客観的に見えてくるはずです。困難な悩み、苦しみは必然の中にあります。困難を必然とみるか。困難を偶然とみるか。で困難の重さが違います。 それは、同じ程度の苦しみでも、もがき苦しむ人と、冷静にそれを受け入れる人がいるのを見ても判断できます。自分は特別選ばれて生きているのではないと真理を見つめ対峙し受け入れるか、こんなはずではない自分は選ばれた人間のはずだと真理を見ぬ振りで通すかの差です。 いずれにしても、唯一の結果に出遇うその時、受動的であった必然の人は自身の過程を振り返り、真理の偶然と対面する事になるでしょう。自分が特別に選ばれたものではないことにやっと気づくのです。そして、そこで初めて自分が生きて意味を作り得なかった虚しさを知る事になるのです。 能動的に過程を楽しみ想像力で生きぬき偶然を受け入れた人は充実した自ら創った必然を体感し味合うことになり、自分が特別選ばれたのではなく、自分が選び生きた人生の過程に意味を挟み込んだ充実を確認するのです。
自分が何故、人間としてここに生まれて来たのでしょう? まず、自分がこの世に生まれて来た経過を考えてみましょう。 どのようにして生まれて来たかをです。 まず、生まれる前です。あなたは無で在った状態から有の精子として突然の異変により現れます。その時、同時に出現したあなたの周りにいる億という精子、それらがあなたのきょうだいであるとすれば、あなたにはきょうだいが一億以上もいたことになります。しかし、あなただけが卵子にたどり着き、あなたになるための一歩がそこから始まったわけです。そのとき億というきょうだい(精子)たちは死滅しまうことになります。
神がこの世の森羅万象あらよるものを創造されたのでしょうか?
ここで、神についての私の考えを述べておきます。 まず、子供には神さまは絶対に必要だという事です。子供には神さまだけでなく、天使もサンタクロ−スも、魔法使いや鬼でさえ必要です。そういった目に見えない ものに、見守られながら子供は育つのです。見えない物を見ようとする心が想像力を育てるからです。 いつも何処かで天使が見ていると思えば、悪い事はできません。そのかわり、良い事も天使が見ていてくれるのです。この世に現れて間のない子供達は、まだ、現実と非現実の区別がつきません。子供達は現実と非現実に出遇いながら、悩み、苦しみ悲しみ、そして楽しみ、喜びの中で想像力を働かせ、考える力を養いながら大人になっていくのです。大人になると、想像力が減退し天使やサンタクロ−ス、魔法使いが消えてしまいます。 神は人の想像力が創った至高のものかもしれません。 勿論、大人になってからも神を信じる心、見えないもの、見えない世界に畏敬の念を持つ事は大切な事です。目に見えないものを信じなくなり、見えないものを見なくなり、見えるものだけを見、信じ、自分の都合のいい時だけ神を心事、助けを求めるというそんな大人たちが、当たり前の大人として世の中を牛耳り、世の中を狂わせているにです。 大人になった時、正しい大人は神を心の中で生かします。 ところが現代においては、心の中から神が逃げていってしまった大人たちが多くなってしまい、子供達より大人達の方が神を想像できる心が必要です。 神を宿せない人は見えないものや、見えない事がらを想像することが出来ないので、見える物しか信じなくなります。ですから見えるものでしか物事が判断できせん。外観だけをブランド物、フアッション、金銀宝石などで飾りたて、ただ快楽だけを求め彷徨(さまよ)う大人達が巷(ちまた)に溢れているのもそのためです。 今、子供達は正しい大人に出遇う必要があります。子供は大人を見本に生きるしかないからです。正しい大人とは心の中に神を内蔵している想像力豊かな人のことです。神を孕(はら)む心は良心となるからです。正しく物事を判断し、考え、自分を律し、クリエイティブに行動するための想像力ある大人です。ですから、神とは他に在るのでは無く、自分の心の中に在るはずのものなのです。 心に神を持てない人は他に求め、自分で物事を判断しない人間になっていきます。 しかし、真理としての神の物理的存在を云えというのであれば、多少難解ないい方に成らざるを得ませんが、「存在としての神は無の状態の事である」という事になります。これは、人間の最も恐れている状態であり、自分達の宇宙が開闢する以前から存在した状態であり、以後も存在する状態であり、今も存在しその無の中に自分達の宇宙が有として存在しているということなのです。 簡単に云ってしまえば、自分達は無の中から忽然(こつぜん)と現れ、ただ忽然と消えるだけで所詮は無以上にはなれない存在だということです。 想像してみてください。あなたが生まれる100年前とあなたが死んだ100年後の世界、地球の誕生と地球が太陽にのみこまれた状態、今の宇宙の開闢と膨張の限界。そのどこにあなたの欠けらがあるでしょう。100年後くらいならば、あなたのひ孫か書き残した何かがあれば残っているかもしれません。でもそれが今のあなたになんの意味があるのでしょう。分かるのは、いまの自分はその時は完全に無であるということです。 当たり前、当然、必然なんかで今、自分があるのではなく、偶然に今の自分が在るということまで想像はたどり着きましたでしょうか?そして、今、自分が在るのは一度だけのチャンスであるということも。 我々が存在した宇宙の前後には変わらない無の世界がただ在り、無自身は無として、神として恒久と在り続けるはずです。 神の強さは無と恒久の強さです、見えないところに存在する強さ、無であるのに存在する強さ。対し人間は存在するのに無である弱さ。この空しき限りある弱さ。 無は無限であり、有は有限と実に単純なことです。有限のわれわれは、いまだに無限の地平線をも確認する思考をもたない。その程度の想像力なのです。 有として存在してるがゆえにどうしても在るもの、見えるものに執着して生きてしまう。ほんの少しの偶然の存在に傲り、大声をはりあげ派手な衣装で身を包み存在をアピールするのは、人間の想像力の欠如の成れの果てであります。 芸術を志しているあなたは 髪をそめたり 派手なフアッションに身をかためたり 厚いお化粧などで勝負しないでください。勝負するなら、世に何かを問うならば、それは作品で問うべきです。自分を主張することはありません。主張することがあるならば作品ですべきです。想像力はあなたを越えているはずですから。越えられない人が、自分を着飾りブランドに身を固め、からっぽな自分を主張するのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Joseph Pion
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